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Nomad image通信『菜園家族だより』第6号(2003年10月31日発行)

第6回“菜園家族の学校”のご報告

寒暖の変化が不順な今年にあって、ほっとするような美しい秋日和の中、2003年10月18日(土)、滋賀県立大学(彦根市)A4棟−205大教室において、第6回“菜園家族の学校−大地に明日を描く21”が開催されました。

今回も、約120名ものご参加がありました。

「北は北海道、南は沖縄」の広がりをもったこの“学校”。今回は、アメリカ・オハイオ州のジョン・ウェルズさん(映像学専攻,現在、京都市在住)のご参加もありました。昨夏、モンゴルを訪れ、ツェンゲルさんご一家にも会ってきたジョンさん。『四季・遊牧』を感慨深く鑑賞したと同時に、今、地域通貨について勉強中とのことで、「菜園家族」構想へも、大いに関心を寄せておられました。

毎回、乳茶を準備してくれているモンゴル留学生の皆さんも含め、世界各地の人たちが、「菜園家族」構想をどう捉えるのか、じっくり話し合う機会があれば、お互いにとって大切な勉強になることと思います。

以下、1・2・3部について簡単にご報告します。

1≪上映の部≫〜甦る大地の記憶〜 映画『四季・遊牧ーツェルゲルの人々ー』の鑑賞

13:00〜14:45は、三部作 全6巻,7時間40分の完全版より、第?部「春を待つ、そして夏?試行を重ねる?1993年早春〜夏」下巻を鑑賞しました。この巻では、待ち望んだ緑の季節、高山部に居を移し、短い夏を家族みんなで精いっぱい謳歌する様子が描かれています。ヤギや馬の乳搾りもはじまり、忙しい中にも、大地の恵みに心満たされるのです。

次回11月は、盛夏、雄大な自然に抱かれて、子供たちがのびのびと成長してゆく、第3部・上巻を上映します。12月に、最終巻(第3部・下巻)をむかえます。

『四季・遊牧』のご感想より

★今回は、映像を通して、偉大な山岳地帯の大自然を見、それを感じることが出来、われわれの今おかれている世の中のおかしさを、より一層感じました。
(滋賀県浅井町・27歳・女性)

★淡々と無駄のない静かなナレーション?平原と空の空気に吹かれた風のようで、心地よい。

静かな暮らしの中にも、人と人のいさかいで心傷つくシーンがあること、印象的でした。そしてツェルゲルの優しい人たちのぬくもりを感じさせてくれました。

また、「菜園家族」の思想は、21世紀の新しい社会の創造であると、びっくりしました。
(滋賀県・62歳・男性・地方自治体首長)

★夏のある朝、ツェンゲルさん一家の笑顔が印象深いです。ミルクを沸かし混ぜながら、満面の笑顔の奥さん、膝に長男を座らせ笑顔のツェンゲルさん。家族全員の満ち足りた空気が伝わってきます。

翻って、私たちの朝は、どんな顔をしているだろう。ひとりひとりが各々の時間で、慌ただしく起き、ことばも少なく一日をスタートさせている。

然の中での生活を経験してはじめて、バランス感覚のとれた人が育つと思います。子供たちにまともな未来を渡すために、既に少しおかしくなっている大人たちが、今、精算しておかなければいけないことは何か考え、具体的な形で地道に進めていかなければいけない、と思います。
(滋賀県草津市・51歳・女性・主婦)

2≪トークの部≫〜心ひたす未来への予感〜 「菜園家族」構想を語る

15:00〜17:15までは、「菜園家族」構想を基軸に、私たち自身の未来を語り、考えました。

(1)「菜園家族」構想の提起

前回の小貫雅男滋賀県立大学人間文化学部教授のお話では、資本主義的生産様式がもたらす人間疎外と、その克服のために重ねられた19世紀以来の様々な努力とについて、言及されていました。労働に人間らしさを取り戻そうとする、これら理想高き試みが、20世紀、なぜ、行き詰まることになったのか、今回、“人間と道具との関係”から考えてみました。

原始より、人間にとって“道具”との関係は、極めて本源的なものでした。自分の手を動かして道具をつくる、それを実際に自分で使って自然に働きかける、その手応えを自ら確認し、次に向けて工夫を加え、またつくる・・・・・。この繰返しは、脳を刺激し、人間の発達を促すものであり、また、労働に愉しみをもたらすものでもありました。このように道具は、本来、人間を人間たらしめるものであったのです。

しかし、前回もお話があったように、人類の長き歴史は、この道具と土地を含む生産手段が個々の人間から分離してしまう、一貫した流れであった、と捉えることができます。

19世紀、資本主義の生成の過程で、その分離は極限の形態となり、2種類の人間を生み出しました。すなわち、近代的機械設備を備えた大工場など生産手段を、一手に私的に掌握する「資本家」と、自らの生産手段を失い、雇われるほかに生きる術のない「労働者」とです。

経済・社会の矛盾、労働者の悲惨な状況を何とか改善したい、との熱い思いに駆り立てられ、当時、イギリスのロバート・オウエン、フランスのフーリエらは、独自の「ユートピア」を描き、その実現を信じて生涯を捧げました。

これらの「ユートピア」に共通するのは、資本主義のもたらす矛盾を、「生産手段の共有化」によって克服しようとした点です。共同住宅で生活する「協同体」のメンバーが、共同の農場と工場で交互に働くことによって、田園と都市が融和した、貧富の差のない自立的な協同生活を営むことができる、と構想したのです。

以後、「生産手段の共有化」は、19世紀後半の主流の理論となり、20世紀の革命家にも引き継がれてゆきます。ブルジョア社会にある一切の愚劣、悪徳、不潔は、「私的所有」に根源を発するものである。それにかわって、大多数の労働者たちが「生産手段の共有」を勝ち取れば、聡明、美徳、清潔の世界がもたらされる・・・・・。当時の状況を想像すれば、こう考えたのも、無理からぬことです。それは、未来への燃えるような希望でした。

ところが、この「生産手段の共有」は、ソ連を例にとっても分かるように、上手く機能することができませんでした。「共有」されたものを現実に運営しようとするには、管理者が必要です。中央集権化の進む中、それはいつしか強大な権力となり、大多数の農民や労働者は、その一握りの者の命令に従って働く、自発性を失った駒へとおとしめられるのでした。自己の地位や利益を維持しようとする社会的上層は固定化し、特権階級さえ形成されてゆきました。本来めざすはずだった、自由・平等・地域の自治という理念は、形骸化してしまったのです。

この過去の苦い経験から、私たちは、何を学びとるべきなのでしょうか。それは、“人間と道具”の本源的な関係を今一度見直し、生産手段の「共有化」にかわる「再結合」の道を探ることではないでしょうか。

「菜園家族」構想が、生きるに必要な最低限の土地と道具を、それぞれの家族の手にとり戻すことによって、生産手段の再結合をはかろうとするのも、こうした人類の歴史の教訓から導き出してのことなのです。そして、自立した家族が支え合って暮らす“地域圏”は、草の根の民主主義を育む場となるはずです。資本主義を超克するもうひとつの道が、ここにあるのではないか、と考える所以です。

(2)柾木高さん・摂さんからのコメント

第6回のコメンテーターに、大阪府堺市在住の画家・柾木高さんと、次男で滋賀県立大学人間文化学部大学院生の摂さんをお招きしました。

高さんは、主な作品の紹介にと、数種類の絵はがきをお持ち下さいました。絵の題材に、ザクロ、リンゴ、スモモなど、木の実を選ばれているのが印象的です。見つめていると、芳潤な自然の恵みの結実、という思いが湧いてきます。繊細に描かれた中にも、赤や黄がつややかで、鮮明に脳裏に刻み込まれるのです。

ご夫婦とも教職に就いておられましたが、中途退職、以後、20数年間、高さんの非常勤講師(週2日ほど)と絵画教室、奥様の美知子さんの和裁などで現金収入を確保し、4人のお子様を育ててこられました。

大都会の一角にありながら、種々の木々が繁り、昆虫や小鳥たちが訪れる下町の長屋。そこにはアトリエがあり、創作活動の場と、家族とともに過ごす場が重なりあっています。静かな語り口が、これに言及するに至って、昂揚し、お顔にも自然と笑みが浮かんでおられるのを見る時、この自ら築きあげてこられた“別天地”へのかけがえのない思い、たしかな満足感が、聞く者にも伝わってきました。

お勤めの人が大部分を占める現在、子供にとって、特に父親の働く姿を見る機会がなく、ふれあう時間さえも、失われています。そのような中、息子の摂さんは、貴重な環境で育ったと言っても、過言ではないのかもしれません。

摂さんは、来春、卒業、今後の生き方を模索しているところです。留学先の新疆ウイグルで実感したシンプルな暮らし。一方で、都市生活への「未練」もあります。正社員として棒のように働き、お金となにがしかの“安心”を得るか、それとも自由だが不安定なアルバイトをしながら、“好きなこと”をするか。一か八かの現状の中で、これから社会に出る若い人たちが、誰しも悩むのは、当然と言えましょう。

「菜園家族」構想は、この迷路から抜け出す方法のように思う、と摂さん。ウイグル滞在中、様々な果樹の種を集め、持ち帰ったそうです。その行動に、心に秘めた摂さんの夢が詰まっているように感じられます。いつかどこかでその種が土に蒔かれ、芽を出し、数十年後、お父さんが築かれたように、摂さん自身の“別天地”を包み込むであろうことを、願っています。

父子ともに、ひとつひとつ言葉を大切に、ゆっくりとかみしめるような語りは、お二人の誠実さをそのままに映し出しているようで、しみじみと聞き入りました。

(3)質疑応答・意見交換

間もなく卒業、将来を考えているコメンテーター摂さんに対して、本人と同世代、お父さんと同世代の双方から、「菜園家族」構想と絡めながら、ご自身の経験をふまえたご意見、あたたかい励ましのお言葉をいただきました。

「週休5日制による菜園家族」を実行するにあたって、特に若い世代にとっては、大阪府堺市の羽間一登さんからもご指摘があったように、何で安定的な現金収入を確保するのか、雇用の現状からすると、一番、難しいところです。

これは、やはり、森と海を結ぶ流域循環型の“地域圏”の形成の中で、市民・自治体・企業が三者協定を結び、一体となって解決してゆかなければならない、大きな課題だと言えましょう。

関連して、大津市の福井陽児さんからは、そうした“地域圏”モデルの具体化への展望や、この“学校”の今後の取り組み方針について、ご質問をいただきました。こうしたお声は、「構想」実現への皆さまのご期待であると受け止め、大切にし、来年度に活かしてゆきたいと、思っております。

3≪交流の部≫〜語らいと喫茶〜

17:15から、内モンゴル留学生たちによるモンゴル乳茶、六甲弓削牧場(神戸市北区)の生チーズ等をいただきながら、交流が続けられました。

各地の様々な世代の方から、それぞれの思い、ご活動の活発なご発言がつづき、お互いにとって、大いに励みになりました。

☆前回(10月18日)コメンテーター柾木高さん・摂さんのご紹介☆

(柾木さんに書いていただいたものを、そのまま掲載させていただきました。)

【柾木高 プロフィール】

○1950年、大分県中津市生まれ
○1974年、大阪府堺市で中学校教師を経て、非常勤講師などをしながら画業に専念する。
○現在、国画会準会員。堺市在住。

【菜園家族について】

文庫本『菜園家族レボリューション』を読んで、一言で言うならばまさに“わが意をえたり”という感じをもちました。本書を貫く「拡大経済批判」・「大地への回帰」といった考えは、今までの私の生き方にも通底するのではないかと思います。

それに読み進むうちに、私の育った60年代の状況が甦ってきました。まさに「菜園家族」だったのではないかと。おそらく私の世代以上の農村部で育った人は、同じような感想を抱いたのではないでしょうか。

ただ現在のような状況から見ると楽園のように思えても、当時は汚いもの・きついものとしか思えなかったのは、何かが欠けていたからだと思います。

螺旋的回帰といわれる「菜園家族」も、容易に楽園とはいかないはずです。さらに現在の状況で「菜園家族」的な生き方を貫く先駆的家族になろうとするなら、並み並ならぬ決意が必要でしょう。

しかし閉塞的な状況の中で、「菜園家族」には人生を託すだけの魅力は十分にあるのです。そしてそれは夢物語りだけではないはずです。

【農は芸術なり】

「芸術」を拡大解釈して、「生活は芸術なり」といってもよいかと思います。住まいから身の回りのもの、道具・食物・衣類に至るまで、本物志向でいたいですね。

また、「農」は自然とは深い関係にあります。自然はまた必然でもあります。「芸術表現」は「自然認識の深さにある」というのが私の持論ですが、「農」はまさに自然のあるべき姿でこそが望ましいのです。

【縮小経済生活について(早い話がビンボー暮らし)】

小貫先生よりコメンテーターにとの話があってから、今までの私の来し方を振り返ることにもなりました。わがままにして家族へのしわよせが多かったと思います。

古来より画家にパトロンはつきものです。あるいは財産があるかです。その両方ともない私が辞職をしたわけですから、家族が食べるだけの収入を得なければなりません。それは週2日ほどの非常勤講師と自宅で絵を教えるというものでした。従ってほとんど自宅で家族と過ごすことになります。

非常勤講師の20数年間は、まさに週休5日制でした。堺市の下町の戦前からの長屋の一角は、私にとって別天地です。わずかの路地や庭には、子供たちが撒いたドングリで、コナラ、クヌギ、カシ、ツバキ、ビワ、クルミ、クリなどが繁り過ぎて刈込みが大変です。野菜作りなども試みましたが、土と日当たりが悪くてうまくできませんでした。

一家6人がわずかな収入で暮らす悲喜劇は、様々な痕跡を残します。親ニナッタガ運ノツキです(泣き笑い)。

【次男 柾木摂 プロフィール】

○1979年、大阪府堺市生まれ
○現在、滋賀県立大学人間文化学部大学院修士課程在学中。
○学部生の頃より、中央アジアや新疆ウイグル地域に興味をもち、2002年3月から1年間、新疆大学に留学。調査のかたわら、カシュガル、トルファンおよび中国各地をめぐり、自然や人々の暮らしを写真におさめる。その成果を修士論文に執筆中。

☆アンケートより☆

(今回も、率直な思いを記したアンケートを、多数いただきました。本当にありがとうございました。)

★前回の林先生の言葉に、大いに共感しました。平和が一番大切なことだと。

アメリカ・ブッシュが不当にイラクに侵略して、世界中に批判されていますが、それを小泉首相が協力して、何のための平和憲法、平和国家でしょうか。

今、大阪には8千〜1万人ものホームレスの人々が苦しんだり、中小企業の経営はどこも破滅状態なのに、50億ドルもの戦費を助けて、本当に情けないリーダーです。 世界中の人々が、みんな助け合って、楽しい地球を創るのが上に立つ人の使命なのに・・・・・。

滋賀の地から世界中に線を広げて、夢のある生きがいを見つけることが出来ますように。
(大阪府寝屋川市・男性・喫茶店経営)

★私は、柾木さんの所で月3回、絵を習っています。約4年になります。今回、はじめて聞く話もありましたが。

日頃からいろいろお聞きしていて、すごく実践しているなあ、物を大切にされ、そして自然に沿ったように生きておられるなあ、と 思っていました。イチョウの木を切ったときには、涙があふれ出てくるぐらい、非常に辛かった、とおっしゃっていました。

少しでも見習いたいと思っています。
(大阪府和泉市・61歳・男性・定年退職)

★柾木高さん、お話と絵はがきをありがとうございました。しっかりした息子さんをおもちで、うらやましく思います。

生きものに囲まれた生活は、自分勝手な都会人間にならないための基本だと思います。カシ・クヌギなども、材木、キノコの台木、木炭や薪の材料になり、手づくりのたのしみの種や、家計の助けになります。(火を燃やせる広さがあれば、穴を掘って炭が焼けますし、木酢もとれます。)

湖北は風景のよい画になるところが多いので、またお訪ねください。
(滋賀県木之本町・66歳・男性・町嘱託職員)

★「“菜園家族の学校”へ来て、勇気を与えてもらった。」という柾木高さんのことばが、よーく伝わりました。

子供との接し方について、我が家の3人の子供はどうだったかと、考えながら聴きました。私どもは共働き(夫・高校,私・中学)でした。十分の話し合いもできず、申し訳なかったなあ、と反省しています。
(大阪府茨木市・66歳・女性・知的障害のある人たちの作業所にて“さをり織”指導ボランティア)

★柾木さん父子のお話、お父様のまじめな姿勢を自分も引き継いでいる、とおっしゃる摂さんのお話を、素敵なことだなあ、と思ってうかがいました。若い方々も、真剣に世の中を見ておられる様子で、たのもしく思いました。

映画では、子供たちのままごと遊びのシーンがありましたが、自分の子供時代、まだ、父母の姿を目で追って、まねごとをすることができるような家族の姿があったのかなあ。今の子供たちはどうであろう、と思いました。
(岐阜県郡上郡八幡町・40歳・女性・畑仕事,アルバイト)

★今回、若い世代の方たちが、これからの自分の生き方について、真剣に考えていることが分かって、少し驚いています。

企業の歯車となって働く、という経験をしてこそ、見えてくるものもあると考えます。
(岐阜県郡上郡八幡町・39歳・女性・障害者小規模授産所勤務)

★摂さんへ、私はその一年の海外留学が、7、8年に延びきった人間で、その時、アイデンティティを失ったような思いがしました。

「自分は一体何者で、何ができるのか?」という問いを、人からも自分自身からも、ずっと突きつ けつつ今に至りますが、ここへ来て実感するのは、この「自分は何ができるのか?」というのが、私たち若手が「菜園家族」構想を実現するキーワードになるのでは、ということです。

実は私は、来年からまた学生をやり、医療の「作業療法」を学ぶ予定です。その治療法の中に、農業・園芸・菜園、そして料理が入っているのを考えると、“農は芸術であり、また医療でもある”と 言えます。農作業が、心身を統一し、癒してくれることは、科学的に実証済みなのだろうか・・・・・。
(兵庫県尼崎市・34歳・女性・翻訳通訳)

★摂さんのお話が、とても良かったです。自分の運命を決めていかなければならない、まして厳しい状況の中で、様々に悩まれることと思います。

けれど、摂さんは、大変恵まれているといえると思います。というのは、小貫先生という素晴らし い先生に若くして巡り会い、生物である人間として矛盾なく生きていける術、この「菜園家族」構想 を知っている。きっとこの先、どんな状況になろうとも、これは決して消えず心の中に灯り続け、知 らずにいる人には大変難しい、この先の人生に希望と可能性を持ち続けられることと思います。

一人でも多くの学生さんが、「菜園家族」構想に出会われることは、彼ら個々人の人生の救いともなり、大きく見れば、人類全体の未来のためにも、大変意義のあることだと、改めて思わされました。

摂さんは、この先どのような手段をもって生活していくのか、まだ決まっておられません。そして シンプルな生活を望まれている、ということで、私はぜひ、自然農をお奨めしたいと思います。

自分の手で何かを作る、生産する、ということは、生活の大安心の源です。それが自分の食べ物であれば最高です。勤務状態がかなり厳しいとしても、自然農なら、時間がかからず、継続可能です。土地だけは探さなければなりませんが、都市生活から離れることなく、ダブルでエンジョイすることが可能なこの農を、ぜひ、いつか実践していただきたいです。
(滋賀県彦根市・38歳・女性)

★毎日忙しく拡大経済につかりながら生活していますが、何とか今回も休みを取ることができたので、参加しました。

摂さんのお話を聞いて、卒業後のビジョンが見えない気持ちが、自分自身と共通する部分があると思いました。同じ堺市で同年代ということもあり、今の便利な都市型社会で生活していると、この環境に「未練」も少しはあります。

しかし僕は、小さい頃から、実家の1坪ほどの庭で野菜を作ることに興味をもつ、変な子供でした。

そのため、農業高校、農業大学校と悩むことなく来ました。卒業後は、北海道の富良野で農作業ヘルパーという形でフリーターをしていました。

その合間に日本各地を旅しながら、いろんな生き方をしている人と、たくさん会うことができ、経 済活動だけがすべてではないことを学びました。

特に、化学が発達していない時代の道具や文化が今でもあり、その環境で行われている農業に非常に関心を持ちました。農薬や化学肥料を使わず、地域の環境を保ちながら、その自然で豊かな暮らしをしたいと思っています。
(奈良県榛原町,実家は大阪府堺市・27歳・男性・有機農産物の生産会社勤務)

★小貫先生のお話を聞かせていただき、「家族」というものについて改めて考えさせられました。現代社会における「家族」のあり方、それが日本の抱える最大の問題だと考えます。

食事時に、家族全員がそろって、一日あった出来事を語り合う、たったそれだけのことが、今の家族には欠けている状況が多いように思います。

お互いに尊敬し合い、高め合うことのできる家族の一員になろうとする、私たち自身の成長が求められるのではないでしょうか。
(滋賀県大津市・28歳・女性)

★私は定年退職後、単に自分の楽しみとして、自然菜園をしていました。 今回、小貫先生から、生産手段を持たない根なし草生活から、生活基盤を持った生活への転換は、まず、年金生活者がはじめやすい、とのお話を聞き、目を覚まされました。

取り組み方によっては、新しい時代を生み出す力になれるのかもしれないと、今後は、もう少し目的意識をもって取り組もうと、思います。
(奈良市・64歳・男性・定年後、自然菜園をしています)

★今回、お聞きして納得した言葉は、自分が作る用具・手段を持つことが、「楽しむ=工夫して確認すること」であり、これは「アート」だと気づきました。

私たちの会社でも、畑を持ち、これからの大変な時代のために作ってゆきたい、と考えておりますが、最近どうやら借りられそうな話になりつつあります。

交流会での学生君の「いのちは誰のものか?」に共感しました。ものを作ることが大切だ、ということも、最近ますますそう思うようになりました。
(名古屋市・54歳・男性・会社役員)

☆ご参加者のお便りから☆

「構想」現実化への条件

西川 富雄さん(77歳,京田辺市在住)
立命館大学名誉教授(19世紀ドイツ哲学専攻)

今月(10月)の“菜園家族の学校”は、気持ちよい秋日和に恵まれ、結構でございました。質問、意見発表の時間中、気づいたひとつの感想を申し述べさせていただきます。

みなさん、「菜園家族」構想に、いたく共感されているかたがたばかり。小生もその一人ですが、それだけに、なにかもっと目に見えるかたちで行動を起こしたい、という念に駆られるみたいですね。少しずつしか実現しないもので、小貫先生が構想現実化の筋道を話されても、もどかしく思う人が多いみたいですね。もっともなことと思います。

小生思いますに、今は、現実変革のユートピアを構想するだけでも、意義深いということ、そしてその構想が現実化するのは、次の二つの条件が与えられる時ではないか、という気がするのです。

つまり、ひとつは、近い将来(20年か30年先)、地球上の人口増とともに、食糧不足が、絶対的に地球上を覆うということ、当然ながら、日本列島は、食糧自給率を引き上げなくてはならない、ということです。

いまひとつは、21世紀、人類史は、「環境」を主要なキーワードとする、新しい文明の枠組みを構想しなくてはならない、ということです。それとともに、「環境」が、人々の意識のなかに深く浸透してくれば、その時こそ、国も地方自治体も、民間諸団体も、列島住民も、「菜園家族」構想に着目することでしょう。

例えば、「菜園家族」が一般化してくれば、列島に「メダカの学校」は、再生してくるにちがいありません。人人は、化学物質の汚染に悩まなくてもよくなります。 現在の小貫構想は、その時、先駆的な意味を持って迎えられ、現実化してくることでしょう。

小生は、その点では、楽天的です。小生自身は、先は短いので、それを見るわけにはいきませんが、焦らず、できる範囲で、その構想の現実化を志向していきたいものと、愚考します。

匆々

2003年10月20日

手づくりに生きる

滋賀県愛知郡愛知川町在住 西田亮介さん(24歳)

私は、志賀町出身、今年の3月に滋賀県立大学大学院を卒業しました。現在は、滋賀県湖東町でパートの仕事をしながら、垣谷奨さんという方の豆腐屋でお世話に なり、見習をしています。

豆腐やその加工品に使う大豆は自家栽培、米も作っているので、田んぼの仕事も手伝わせてもらっています。トラクター、田植え機、コンバインなど、どれも触れたことがなく、毎日初めてのことばかり。奨さんはじめ、地域の方々の温かさに、本当に助けられています。

初めてといえば、奨さんの家の畑を借りて、野菜を作っています。夏にはトマト、ナス、ニガウリ等を穫りました。今は、大根、カブラ、チンゲンサイが育っています。野菜が大きくなっていく様を見るのは楽しみで、親になったような気持ちで、畑へ足を運びます。

畑一年生が、まわりの人達に教えられながらよちよち世話していても、野菜達はそれなりに育ち、実をつけてくれます。植物も生き物、彼らの生存本能に助けてもらっていると言えるのかもしれません。食べることの喜びをかみしめています。

月・火・木・金曜はパート、火・金の仕事前と、土日は豆腐です。この生活にも慣れました。あたたかな人達に囲まれて、手応えのある日々です。親がたくさん、増えました。

将来は、奨さんと同じように、自分で育てた大豆で豆腐を作って生活したいと考えています。まだまだ遠い目標ですが、勉強の日々です。

このような暮らしをしようと思ったきっかけは、大学での経験にありました。映画『四季・遊牧』の、モンゴル・ツェルゲル村を訪れる機会に恵まれ、大地にしっかりと根ざした遊牧民達の生き方に触れたことがひとつ。

もうひとつは、大学院在籍時に研究テーマとして選び、取材を重ねた、彦根の仏壇づくりに携わる職人さん達の姿でした。

自身の肉体、五感を使って生きる、とでも言えばよいでしょうか。そこにこそ、人間の持つ力、可能性が発揮されるのではないかと思うのです。

日が短くなり、豆腐づくりに取りかかる頃は、まだ真っ暗です。胸に吸い込む空気は冷たく澄んで、身が引き締まります。この場所で頑張っていこうと思います。

“学校”へは、都合のつく限り参加させて頂いています。集まる皆様との交流も楽しみにしています。

ではまた、彦根のキャンパスで月1回開かれる、ちょっと風変わりな“学校”でお会いしましょう。

2003年10月22日

☆次回(11月15日)コメンテーター池田博昭さんのご紹介☆

(池田さんに書いていただいたものを、そのまま掲載させていただきました。)

【プロフィール】

○池田建築計画 一級建築士事務所 代表
○1979年、滋賀県八日市市金屋にて事務所開設
○1990年、同市緑町に移転、現在に至る。
○受賞歴:1995年、八百亀 商店コンクール(滋賀県商工会主催)知事賞受賞
1996年、酒游館 麗しの滋賀建築賞(滋賀県主催)受賞
○URL http://www.ne.jp/asahi/ikeda/plan

【日本の住まいをめぐる現状】

住まいは人にとって必要であり、生きて行く上での希望でもあると思います。

その住まいが、今では25年ほどで取り壊し、また建て替えられています。なぜ、そのような状態になってしまったのか考えてみると、住宅に魅力がなくなってしまった、というのが共通した理由のようです。

今、一般の住宅でも、建築材料は工業製品が多くなっています。本物に見せかけた、安くて狂いのない物をつくることができますが、どうも時間とともに魅力が失せます。

また、マニュアル通りにすれば、誰がつくっても同じ結果になるようになりました。職人は決まった物をつくる人になり、「人が必要とする物をつくれる人」ではなくなりました。

ほとんどの建築材料が工業製品に置き換えられた現在、ようやく残ったものが木材です。しかし、その木材でも、国内自給率は2割で、多くは海外からエネルギーを費やして運ばれてきているのです。戦後植林された木が、十分使える状態まで育っているのに、それらは放置され、山の荒廃が進んでいます。

左官の材料にしても、自然の土を扱うのをやめ、調合品として工場生産により供給されています。これらは主に樹脂でプラスチック化して固めるもので、土の壁が持っていた吸放湿性を大きく失いました。魅力の失せた材料と湿式構法特有の工期の長さを嫌われ、左官の仕事自体が、消滅の危機に晒されているのです。

このように、手間のかからない見かけだけのすぐに出来る家の普及により、延々と築き上げられてきた自然の素材を扱う知識や技術が失われ、出来たときが一番良く時間とともにみすぼらしくなって行く、魅力のない家が大量につくり出されてきました。

その結果が、25年ほどで取り壊し建て替えられることになったと考えます。

【近くの山の木で家を建てる】

もう一度、伝統の知恵と伝承された技術から学び、それを科学の力を借りて実証しながら、自然素材の性質を理解し扱う技術を再構築しなくてはなりません。

木材の場合、近くの山の豊富な木を使うのが基本です。用材にするためには、乾かす必要があります。杉の木を自然に待って乾かすのには2年間以上必要ですが、私たちが進めている方法なら、24日位で完全に乾きます。これは、木くずを燃やし煙でいぶして乾かす薫煙熱処理、薫煙乾燥として、理論的に確立されている方法です。実用化は簡単ではありません。装置は手作りで、その特性は一様ではないからです。

しかし、これは何も特殊なことではなく、工業素材を決まったやり方で扱う“与えられた技術”とは正反対の、自分たちの目標にかなった技術を、多くの人の力を合わせて再構築する努力が必要なのです。

このような考えを方々で話しかけてきた結果、賛同を得て、2000年に「里の家をつくる会」、2002年に「淡海の舎事業協同組合」が生まれました。両会の共催で2002年11月から月一回、「根本から見つめなおして、ちゃんとした家をつくる」という連続講座を続けています。

もう簡単に家をつくるのはやめにして、本当に必要な家を、時間と手間をかけてつくってはどうでしょうか。山の木をたくさん使うことによって、山にも仕事の機会が多く生まれます。手仕事によって、多くの職人に本来の仕事の機会が生まれます。人が本当に必要とする家が出来ます。

◆新聞の記事から◆

研究してます
「菜園家族」構想を提唱
滋賀県立大学人間文化学部教授
小貫雅男さん(68)

リストラ、教育、介護・・・・・。山積する問題に漠然とした不安を抱く現代人。「大地から離れ、都会暮らしで根無し草となったのが原因」と嘆く。

市場競争至上主義が生み出した拡大系社会の陰で、軽視された農業に再び光を当て、新しい循環型社会の枠組みを追求している。

提唱する「菜園家族」構想は週休五日制が原則。企業で働く時間を減らし、家族らと自然の中で農作物づくりに励む。そんなゆとりある生活スタイルが今日の諸問題の解消、社会変革の力を生み出す、と主張する。

「例えば子ども。親の作業を手伝うことで感謝の心や、高齢者へのいたわりが生まれ、教育や介護問題の解決に結びついていく。自然の中では豊かな感性をはぐくめるし、家族の存在がすべてを好循環させる」。

ただ、構想は現在の市場経済とは逆。「個々の努力では難しい。家族を支える地域ブロックが必要になる」という。そのため、山から琵琶湖へと流れる川のほとりを中心にした自然豊かな流域地域圏づくりを提唱。県内に、森と水がつくる11ブロックのモデル地域を設定し、地域通貨、独自の税制度など自分たちで考えたまちづくりを、と呼び掛ける。

2001年6月、「菜園家族」構想や、流域圏形成を実体験するため、構想するブロックの1つ、多賀町の山奥、大君ヶ畑地区の貸家に移り住んで研究庵を開いた。

「住んでいる人たちの人生観、昔話を聞いている。人間の意識も含めて全体を知ることが大事な調査となる」と語る。同地区も少子高齢化による過疎に悩む、という。 「農は芸術」とし、無限の可能性をみる。発想の根源は旧満州(現中国東北部)での少年時代。10歳で終戦を迎えたが、畑仕事に没頭、大地に溶け込む生活を送った。物質的に貧しくとも精神的豊かさがあった。

自然とともに生活するモンゴル遊牧社会の研究も30年以上になる。これも「菜園家族」構想の原点になっている。

田舎暮らしが人気を呼び、人々の意識が変わりつつある。大君ヶ畑地区での研究から、モデル地域が増え、新しい近江の国が誕生することを期待する。

【京都新聞記者・大竹 逸朗】(2003年7月8日付京都新聞)

☆“学校”のお知らせ☆

次回以降の“菜園家族の学校”のコメンテーターは、以下のように予定されています。

*11月15日(土):池田 博昭さん(池田建築計画 代表,一級建築士,滋賀県八日市市)
24年平均で砕いて建て直す、工業化量産住宅が圧倒的な現代日本。今一度、木という優れた自然素材と、伝統の技術や知恵を見直したい。鈴鹿山中に森を訪ね、また様々な職人さんと語り合いながら、「近くの山の木を使って家を建てる」森と野を結ぶ人々の連携づくりをめざして、行動を重ねておられます。

*12月20日(土):小林 俊夫さん(アルプカーゼ・牧場,長野県下伊那郡大鹿村)
標高1,000メートル、南アルプスの山中にて、ご家族で営む。搾乳牛3頭、搾乳ヤギ5頭。40代でスイスにチーズづくりを学んだ時、家族とともに働き成長する子供たちの姿が印象的でした1997年、木造校舎を活用し、農業体験宿泊施設「延齢草」を開設。30年前、高度成長の流れに逆行するかのように、ふるさとの地でスタートしたこの“小さな牧場”は、今、たしかな輝きを日本の子供たちの未来へと投げかけています。

編集後記

今回のコメンテーター・堺市在住の柾木高さんは、1950年生まれ。大分の在での少年時代は、農耕馬・牛のいる暮らしだったそうです。私たち娘・息子の世代にとって、授業でさらりと流され、とりわけ感慨も残さず終わる“高度成長”の話。親の生きてきた道のりを、いなかの祖父母もともに、家族で語らい辿ることは、この“日本を変えた6000日”の軌跡を、ありのままに肌身で感じ学べる、最良の現代史の学校であるとともに、歴史の流れに自らを位置づけ、未来を考える貴重な出発点になるはずだと、最近、改めて思います。(伊藤恵子)

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