Nomad image

::::ホーム::::掲示板::::メール::::リンク::::
第2号
第3号
第4号
第5号
第6号
第7号
第8号Nomad image
最新号 第9号

Nomad image通信『菜園家族だより』第8号(2004年3月15日発行)

2004年5月15日(土)に“菜園家族の学校”再スタート!!

〜本年度は隔月第3土曜日に開催します〜

2003年12月20日(土)に第8回を終えた後、しばらくお休みをいただいておりました“菜園家族の学校”ですが、「休講」期間中にも、皆さまからお電話やお便りなどをお寄せいただき、おおいに励まされました。本当にありがとうございました。

厳冬を越して再び春をむかえ、この度、2004年5月15日(土)に、2年目の“学校”をスタートする運びとなりました。そのお知らせとともに、前回の内容をまとめ、ここにご報告いたします。

第8回“菜園家族の学校”のご報告

この冬最初の大寒波が到来、冷たい風雪の吹きすさぶ中、2003年12月20日(土)、滋賀県立大学(彦根市)A4棟−205大教室において、第8回“菜園家族の学校−大地に明日を描く21”が開催されました。

名古屋など、普段、雪の降らない太平洋側の地域まで含め大荒れで、交通機関にも大影響。1年を締めくくる会なのに・・・・・、と朝から気をもみました。しかし、いつもの時間になると、そんな状況をくぐってでも、滋賀県内をはじめ、東京、山梨、愛知、石川、京都、奈良、三重、和歌山、大阪、兵庫の各地から、約120名もの皆さまがぞくぞくと会場に到着されました。あんな吹雪の中を、外へ出かけようというのは、一大決心です。スタッフ一同、本当に感激したことです。

コメンテーターの小林俊夫さん(長野県大鹿村)も、予定していた高速バスがストップ、急遽、娘さんが車で40分先の電車の駅まで山をくだり送られ、はるばるお越し下さいました。  また、歴代のコメンテーターの方々も、東京・山梨・大阪というご遠方よりお集まり下さいました。

皆さまのご熱意をひしひしと感じたこの日、以下、1・2・3部について簡単にご報告します。

1≪上映の部≫〜甦る大地の記憶〜 映画『四季・遊牧ーツェルゲルの人々ー』の鑑賞

13:00〜14:45は、三部作 全6巻,7時間40分の完全版より、いよいよ最終巻、第?部「忍び寄る秋?歓喜、そして思索−1993年盛夏〜晩秋」下巻を鑑賞しました。この巻では、再びめぐりくる秋の季節、遊牧民たちの大地への思い・未来への思いを描いています。

『四季・遊牧』のご感想より

★さすがに最後の方では、胸にジーンときました。“大地に生きる限り”、力強いというか、安心感をもたせる詩であり、生き方の方向として、支えになる言葉やなあと思いました。
(大阪府和泉市・61歳・男性・定年退職)

★この一年、たくさんの素晴らしい人達との出会いを経験させてもらえたこと、また、今ではどこか親戚のような親しみを感じる、ツェルゲル村の人たちの映画を繰り返し見せていただいたこと、言い尽くせぬ感謝の気持ちでいっぱいです。
(滋賀県彦根市・56歳・女性・パート)

2≪トークの部≫〜心ひたす未来への予感〜 「菜園家族」構想を語る

14:45〜17:15までは、「菜園家族」構想を基軸に、私たち自身の未来を語り、考えました。

(1)「菜園家族」構想の提起

第7回の小貫雅男滋賀県立大学人間文化学部教授のお話では、「菜園家族」構想がなぜ家族を重視し基盤に据えようとするのか、人間という存在にとって家族とは何かを、生命の起源から人類出現への過程を辿ることによって、根本的に見つめ直し、考えてみました。

今回は、さらに“いのち”をミクロにさぐり、生物個体の細胞ひとつひとつの構造と機能の世界から、この「構想」へと繋げてみました。

私たち人間という生物個体は、60兆もの細胞が集まり構成されているといわれています。これら細胞は、どれもその細胞膜の内部に原形質をたたえています。原形質は、核と細胞質に大別されます。細胞質の部分をさらに観察してみると、コロイドのゾル状の細胞質基質の中に、ミトコンドリアとかリボソームとかいった種々の細胞小器官があることが分かります。

このような細胞の構造と、そこで繰り広げられる生命活動、そしてそれら60兆もの細胞が有機的に連関して維持される一人の人間の“いのち”をじっくり見てみると、不思議にも、社会における家族のあり方が、生産手段や自然や地域との関わりの中で浮き彫りになってきます。

遺伝子の存在の場であり、その細胞の生命活動を全体的に調整する細胞核を、人間社会における「家族」とみなしてみましょう。この「家族」は、その周囲を水・糖・アミノ酸・有機酸などから成る、発酵・腐敗・解糖の場としての細胞質基質、いわば「自然」や「農地」に囲まれています。タンパク質やエネルギーをつくる細胞小器官の方は、さしずめ「手工業の場」や「小工場」といったところでしょう。

すなわち、一個の細胞は、「家族」が生きるに最低限必要な「自然」と「生産手段(=農地と生産用具)」を自己の細胞膜の中に内包しているのです。これは、「菜園家族」構想において、個々の家族が自らの生産手段を確保し、それによって自然に働きかけ、食べ物など基本的な生活手段を得ることに例えて見ることができるのではないでしょうか。

さて、話を生物個体の細胞に戻しましょう。細胞呼吸によって取り出されるエネルギーは、細胞質にあるミトコンドリアで、「エネルギーの共通通貨」といわれる物質ATPに転換されます。このATPは、血管を通じ人体内の他の器官に拠出されます。その代わりに個々の細胞は、血液に乗せて、必要な酸素や栄養分を運んでもらったり、老廃物を搬出してもらったりします。つまりそれは、「週休五日制」に例えるならば、週の二日間、従来型の勤め先に労働を提供し、それによって得た賃金で自己補完していることにあたるのです。

人間のからだは、みずみずしい細胞質に満たされた生き生きとした細胞群から構成されるものであり、かつ、それらを相互に有機的に連関させ調整することによって、はじめて十全に機能しうる生命体です。もし、細胞質が干からびてなくなってしまったら、その細胞はどうなるでしょう。また、そのような細胞が日に日に増えていったら、人体は、どうなってしまうでしょう。

「干からびた細胞」、それらが無数に出現している状態。それはまさに、現代日本の実態です。家族が自然から離れ、生産手段を失い、自らの労働力を売るより他に生きる術のない状態の中で、ますます衰弱してゆく。こうした無数の家族群の出現により、地域社会も疲弊し、経済・社会が機能不全に陥り、息も絶え絶えになっている。これが今日の日本の閉塞の根底にある原因です。

生産手段を失い、細胞膜と核だけになった「干からびた細胞」という名の賃金労働者家族に、今、細胞質という自然と必要最小限の生産手段を取り戻すことによって、みずみずしい家族を、人間を再生することが、何よりもまず、もとめられています。そして、そうした家族同士の連携の中で、地域も甦ってゆくのです。

自然界が30億年ともいわれる気も遠くなるような長い年月をかけて編み出してきた、“いのち”の驚くべき摂理を見つめる時、人間社会のあるべき姿も、自ずと導き出されてくるのではないでしょうか。

(2)小林俊夫さんからのコメント

第8回のコメンテーターに、長野県下伊那郡大鹿村から小林俊夫さんをお招きしました。

お話に先立って、2001年7月6日にNHK教育テレビで放映された番組『ごちそう賛歌〜ナチュラルチーズ・山からの贈り物〜長野県大鹿村』(25分間)を鑑賞しました。 映像には、小林さんの様々な姿が登場します。

放牧地で牛を追い、草を刈る作業着姿にはじまり、チーズ工房「アルプカーゼ(山のチーズの意)」で、一つ一つを丹念に磨き熟成させる白衣姿、できあがったチーズを遠来の常連さんに美しく切り分けてすすめるエプロンのシェフ姿、そして目を輝かす子供たちに、ヤギの乳搾りやチーズづくりをやさしく教える先生の姿・・・・・。

本来、人間はその一身に、「第1次産業」から「第3次産業」まで様々な能力の萌芽を持ち合わせているものです。そのそれぞれを相互に連関させながらいかんなく伸ばしてこそ、人間は心身ともにのびやかに生きることができるのだと、小林さんは身をもって示して下さっているようです。

そんな小林さんの信念は、奥様の静子さんと二人三脚で家族小経営を基盤とする「小さな牧場」を築きあげてこられた生き方そのものに、また娘さんたちの育て方にも貫かれています。

バブル期、グルメブームに日本が酔う中、人間的な営みとしての食を取り戻す実践を重ねる方々が『食をうばいかえす!〜虚構としての飽食社会』(有斐閣選書,1984年)を著しました。この本の中の静子さんの文章にも、父母の仕事を手伝いながら、生きる力と豊かな人間性を育んでゆく娘さん二人について、書かれています。

その後、中学卒業をむかえた上の娘さんは、「家にいて、お父さんやお母さんから、もっと学ばせてほしい」と自ら申し出ました。そして、高校へ行くかわりに、スイスの農村へ修行に出かけます。間もなくご両親のもとに届いた手紙には、グリーンツーリズムの農家民泊を手がける受け入れ先のご家族に、「あなたになら安心して宿泊関係を任せられるわ。」とすぐに太鼓判を押してもらえました、お父さんとお母さんに一人前にしてもらったお陰と感謝しています、と書かれていたそうです。子供にとって、人間にとって、まさに、自然と家族の中での労働が「先生」なのです。

小林さんご夫妻が1町歩の山林を開拓し、娘さんたちを育ててこられたのは、時あたかも『日本列島改造論』の頃、1970年代です。そんな時代の大勢にあっても、家族小経営を充実させると同時に、南アルプス横断自動車道建設阻止運動や、母校大河原中学校校舎移築保存など、ふるさとの地で30年間、奮闘して来られました。

それらは、結局、人間の幸せとは何か、人間が学び、育つとはどういうことなのか、共に生きるとはどういうことなのか、という根本的な命題を、真っ正面から見据え、実践によって周囲に問うてきたひとすじの道であると言えます。村の中ではなかなか理解してもらえず、大変なこともあったそうですが、今ようやく、「やっぱり小林さんの言ったことが正しかった」と分かってもらえるそうです。

小林さんの静かなお人柄の中には、燃える理想と変わらぬ真摯な心が秘められています。これは、実践の中で培われた、確かでゆるぎない生きる哲学、歴史に学び社会を見ぬく洞察力、どんな困難をも乗り越える鍛え抜かれた強靱な精神力に、しっかりと裏打ちされたものだと思わずにはいられません。だからこそ、「弓を後ろに引けば引くほど、矢は遠くに飛ぶがごとく、歴史を本当に深く学べば、遠く未来を見渡すことができる」との言葉にも、説得力があります。

ますます混迷を深める世界の状況にあって、小林さんご一家の生き方は、圧倒的な迫力で迫り、それは、何日経っても忘れられない力強さと未来への希望となって、心に響いています。

質疑応答・意見交換

小林さんのお話に、会場の皆さまも本当に深い感銘を受け、感激の涙で聞き入っておられる方もおられました。ご質問も後から後から続き、途切れることがないほどでした。

校舎移築を何としてもやり遂げようとした思い入れは、というご質問に対しては、小林さんは、その校舎が、戦後、新しい憲法のもとで、村にも自主・自由の気風がわき、自分たちの村は自分たちの手でつくってゆこうと、みんなの力で建てられたものであることを語って下さいました。それは、地域の未来を担う子供たちが育つ場であり、しかも、大人たちが自らの力で作りあげたかけがえのない場です。だからこそそこには、決して踏みにじってはならない人々の希望が詰まっています。この民主主義と地域自治の象徴を、今、消し去ることは出来ない、との小林さんの切なる思いが伝わってきました。

3≪交流の部≫〜語らいと喫茶〜

17:25から、内モンゴル留学生たちによるモンゴル乳茶、六甲 弓削牧場(神戸市北区)の生チーズ、そして小林さんがご持参下さったヤギ乳と牛乳のゴーダチーズをいただきながら、交流が続けられました。

いつまでもご発言がつづく中、名残惜しくも時間となり、春の再開を期して、締めくくりとなりました。

☆前回(2003年12月20日)のコメンテーター小林 俊夫さんのご紹介☆

(小林さんに書いていただいたものを、そのまま掲載させていただきました。)

【プロフィール】

私は、1945年に長野県大鹿村に生まれました。会社勤めの後、村へ戻って酪農を始めました。初めは酪農組合に乳を出荷したのですが、酪農状勢の変化に伴って、草主体の飼料で飼育している我が家の牛乳を活かすには、ということで、チーズの製造を考えました。現在は、木造校舎を移築した小さな宿「延齢草」もやっていて、小規模多角的家族経営で生活しています。

【幸いすむ地は自らが創るもの】

私の家は、南アルプスの麓にあります。現在は、乳牛4頭、山羊6頭、鶏10数羽を飼い、自家用の米と野菜を無農薬で栽培しています。自給率の高い生活です。牛と山羊の乳は、チーズに加工、販売をしています。

30数年前、列島改造論がとなえられ、日本が高度経済成長の最盛期にあった頃、私は、自分の生まれた村に帰ってきました。中学卒業と同時に村を出て、会社勤めを経験したものの、年を重ねるごとに思いがつのるのは、幼少の頃の記憶へのおさえがたい郷愁でした。野山を思いっきり駆け回った日々。牛や山羊、緬羊、鶏に兎・・・さながら動物園のようだった昭和20年代から30年代にかけての生活が、私の今の暮らしの底流にあります。私の今の暮らし方を時代の先駆けと評価する人もいますが、ほんの少し前の農村の暮らしの中に、私は多くの示唆を受けるのです。

【スイスの景観と国民性】

チーズの製造を始めるにあたって、スイスへチーズ造りを学びに行って来ました。私が訪れたのは、観光客の全く来ないような小さな農村が多かったのですが、そんな所でも手入れの行き届いた実に美しい国でした。ある村の家の窓辺に、見事なゼラニュームが咲いていました。あまりの美しさに、花の手入れをしていた婦人に「何故花を作るのですか?」と尋ねると、「自分の住む場所は自分で手入れして、心地よく暮らしたいから。」と言うのです。一人一人が花を愛し、それが子供達にも受け継がれていけば、花が溢れる国になるわけです。

日本に住んでいてイライラさせられるのは、土木工事による環境破壊と、工事終了後に現れる醜悪な景観です。スイスに滞在中、彼の国ではどうなのかと、様々な場所を注視してきましたが、河川や道路、水力発電の送水管に至るまで、環境と景観に細やかに配慮され、「なるほど」と感心することばかりでした。自然界への影響を最小限にするための努力と、景観は国民の共有する財産であるという思想。私は、このような国民性に強く共感するのです。

【木造校舎を遺す】

1995年、私の母校であった校舎を一部移築し、体験型の宿泊施設「延齢草」を始めました。

この校舎は、1947年に施行された教育基本法に基づき、1948年に建てられました。敗戦直後の厳しい状況の中、国家財政は破綻し、税金や補助金は一切当てに出来ませんでした。経済的余裕もない山村でのことです。山から木を運搬するにも人力で、その建設過程は、まさに知恵と汗の結晶でした。

建物自体が、戦後民主主義の出発点とも言える校舎の取り壊しが決まった時、行政に移築保存を求めました。しかし、思いは届かず、私は個人での移築保存を決意したのです。

無機的なコンクリート校舎ばかりになり、教育について多くの問題が指摘されている現代、豊かな時代になったと言われながら、人の心は何処へ向かっているのでしょうか。

【山羊のいる暮らし〜農的体験の場を〜】

スイスの農家の子供達は、実によく働きます。また、休暇になると農家を訪れて農作業をする家族連れもいます。日本の町の子供にもそんな場があればと、移築した校舎で、山羊の世話やチーズ造りなどの農業体験教室を開いています。最初は怖くて山羊にさわれなかった子供が、何度も訪れるうちに、上手に搾乳が出来るようになります。山羊は、子供や女性にも世話が容易で、気質が穏やかです。日本の歴史上、度々大飢饉の記述が残っていますが、その時代に山羊が飼われ、乳や肉が利用されていたなら、あれほどの悲惨な状況にはならなかったのではないか、と考えます。

【「延齢草」から未来へ】

近い将来、私達が直面する大きな問題は、食料不足、環境破壊に伴う生活環境の悪化、交通・通信手段の発達によってもたらされる精神的閉塞感だと考えています。

だからこそ、農と食に根ざすことにこだわりたい。都市生活者を含めて、山羊や鶏を少し飼い、小さくても菜園を持つ農的生活を奨めたい。気持ちの通う動物と共に暮らし、自分の手をかけた食物を食べる。日々の暮らしの中で自分を律し、自然と人間との関わりを学ぶ時間が、これからの時代に必要になると思います。

☆アンケートより☆

★小林さんのうつむき加減に記憶を思い出しながら、トツトツと話される言葉に、知らず知らずのうちに引き込まれていきました。人にうったえる言葉は、雄弁でもなく美辞麗句でもなく、実践に裏付けされた中からハキ出される、心の言葉であることを知りました。

どなたかも言われましたが、今年最後にふさわしいコメンテーターを迎え、たいへん意義深い“授業”であったと思います。

頂いたチーズは、日本のツェルゲル村の味と香りがしました。

今冬最初の寒波に湖畔のキャンパスも薄化粧し、“菜園家族の学校”も、しばしの間冬眠。来春の開校が待ちどおしく思われます。
(滋賀県彦根市・59歳・男性・会社員)

★毎回感動しましたが、今回は、本当に涙が止まりませんでした。小林さんの、大地に暮らす、風土にあった生活をすることによって、必ず幸せに暮らせる、というお話は納得しました。
(滋賀県大津市・55歳・女性・会社員)

★小林さんの校舎移築保存の趣意書の中に、「教室の床下には節穴や隙間から落下したノートや鉛筆などが堆積しており、それぞれの年代の人たちがここを通過していった時間を見た。」とあります。

これは、厳冬の中2ヵ月かかって、一枚一枚自ら板をはがして保存に情熱をかたむけた人にこそ感じられる大きな感動だったのでしょう。この一文に強く胸を打たれました。
(大阪府堺市・53歳・男性・画家)

★小林さんの、自分で力づくで、周囲の好きなものを守るしかない時代になった、というお言葉。

自立し、自律し、何が自分にとって一番守らなければならないことかを、しんどいことや、一見割にあわないと思われることなどを越えて、考えて、行動して、行動して、考えていかなければならな いと、お尻を叩かれた1日でした。
(大阪府河内長野市・24歳・女性・販売員)

★教室に入った時にまず、「こんなたくさんの人が来てるんや〜」と、とても驚きました。

小林さんのお話で心に残ったのは、娘さんの詩です。学校をやめて、お父さんやお母さんの仕事を手伝いたいって思えるのは、すごいと思います。私も田舎に住んでいて、家では農業をやっているけ れど、なかなかそんなふうには思えません。

田舎に暮らすことっていうのは、絶対たくさんの不便さがあり、日常生活で苦労することも多いと思います。それでも田舎に残って暮らしつづける理由って何だろう?小林さんは、それ以上に得ら れるいいものがある、とおっしゃっていました。

『四季・遊牧』のモンゴルの人たちの生活は、人が生きていくための方法の原点、という感じがします。それを小林さんは実践しておられると感じました。

今の日本の生活を見直すことができ、とてもよかったです。チーズがすごくおいしかったです。
(滋賀県彦根市・19歳・女性・学生)

★小林さんのように強く生きている方がおられることに感動し、私自身、生きる力を与えていただきました。

最も感動したことは、小林さんの生き方の根底に、日本国憲法の精神が輝いていることでした。様様な憲法論議よりも、説得力がありました。ひとりひとりが小林さんのように自立し、自分の頭で考え行動することが、憲法を守ることにつながるのだと、思います。

雪の中とはいえ、若い人の参加が目立ったのも、心強く思いました。
(東京都杉並区・71歳・男性・建築家)

★イラクへの自衛隊の派遣や、子供たちに対する残忍な事件など、疑問に思うことが多いこの時勢の中で、あらためて根本的に大切なことを見直すことができたと思います。

小貫先生の細胞の構造から社会と家族のあるべき姿を見つめ直す新しい発想や、小林さんの「不便よりも、自然の絶対的な価値の方が大切に思える」ということを、自分でも実感できるように、経験 をしていきたいと考えています。
(大阪府和泉市・23歳・女性・販売員)

★小林さんの強靱な意志と自己表現力に、敬意を払うばかりです。今後の社会の一つの指標となることでしょう。老齢者ですが、これから精神だけでも受けて、頑張りたいものです。
(大阪府堺市・65歳・男性)

★小貫先生の「菜園家族」の意味を人体の仕組みに照合させての説明は、面白くかつ理解が深まりました。細胞をひからびさせない工夫と、エネルギーの使い方の工夫、すなわち自然とのうまい共存が、カギだと思います。

小林さんの長い実践からの自然への思い、家族のあり方、教育の姿勢の温かさ、人間として生きる大切さを、涙の出る思いで傾聴させていただき、尚一層力強さを感じ、感銘いたしました。
(同上・63歳・女性)

★小貫先生、いつも論理的で分かりやすくお話ししていただき、ありがとうございます。生産手段の共有化を最優先し、それを再び家族のもとに戻すことができなかったことが、社会主義が崩壊した理由に挙げられていたと思うのですが、自分自身はまだまだ分かっていなくて、自分なりに考えていきたいと思っています。

小林さんのお話、すばらしかったです。何か胸にジーンときました。二人の娘さんの詩や手紙のお話では、本当の教育のことが語られていると思いました。ご両親の自然に根ざした、まっとうなほん まもんの子育て、そして家族のあり方も示しているんだと思いました。心洗われる思いです。

「憲法を守れ、9条を守れ」とスローガン的に言っているだけでなく、生活そのものを、その精神にのっとって実践していくのが、これから特に大切だということ、その通りだと思います。

それにしても、経済的な面や地域で辛い思いをしても、それをのりこえて、一日一日ご自分の考えを大切にされ、今その生き方が実を結ぶというのは、ただただ感激するばかりです。本当に励ましを受けた一日でした。
(大阪府和泉市・61歳・男性・定年退職)

★小貫先生の細胞質と核の例え話に加え、大地とともに人生を過ごしてこられた小林さんのお話は、地球環境が危機に瀕してる現在にあって、たいへん示唆的であり、おおいに勉強になりました。

今までは、個人として菜食主義を貫くことで、自然破壊に加担しないことをめざしてきたのですが、小林さんの体験を参考に、もっと具体的行動に時間と労力をつぎ込んでいこうと、考えています。 
(滋賀県米原町・54歳・男性・会社員)

★今回の内容を通して見ると、『四季・遊牧』で、子供が祭りに備えて母親について料理の手伝いに取り組んでいる姿と、小林さんのところで、子供たちがチーズ作りや乳搾りの体験を心待ちにしてやっている姿が、生き生きしていて感銘を覚えました。

私の子供の頃を振り返ると、趣味程度であっても、両親と自然に囲まれた場所へ足を運んだり、料理の手伝いをしたりといった経験が少ないことに気づきました。

今はその反動で、自分から田舎と呼ばれている場所へ行ったり、体験教室に参加したりしていますが、子供のうちに、もう少しそのような経験を味わっていたら、もっと早い時期から自主的に判断  し、行動できるようになっていただろうと、思っています。
(大阪市・25歳・女性・会社員)

★小さい頃、祖父母の農業の手伝いが、週末の決まった予定でした。年を重ねるごとに、学校の部活動などで手伝いから遠のき、そのうち小さな地域で一生を暮らす、ということが、自分の世界を小さくするような気がして、大学入学を機に実家を出ました。

今、大学で勉強しながら、なおかつ都市で暮らしていて思うのは、大地から離れるほど、自分が幸せじゃなくなっているということです。

地域の人たちと共に生きることができれば、自分を待っていてくれる人がいることも、誰かに必要とされていることも、ちゃんと分かります。

昔の世代の人たちと同じでなくても、今の世代の私たちにつくれる地域というのがあると思います。「いえ」にしばられるのでもなく、個々が充実しながら生きていくための価値感を見出すことは、必要でもあり、また、できることでもあると思っています。今日は、とても刺激をいただきました。
(大阪府吹田市・23歳・女性・学生)

★大地と人間の関係は、永遠です。私たちが出来ていないことを、次世代へ引き継いでいけるように、今日の小林さんのご講演を、今年ラストのお話として、しっかりと受け止めたいと思います。
(京都府長岡京市・59歳・女性・会社員)

★“1年生”の修了にふさわしいコメンテーターをお迎えして、感動ものの半日でした。

小林さんは、すべてが等身大のお話で、足元の確かさ、未来を見つめる目の鋭さともども、圧巻でした。よくおいで下さった、よく出会えたという思いで、感謝です。

「菜園家族」構想は、最初はとてつもなく大構想だったのですが、だんだん回を重ねるにつれ、もしかしたら、少しずつ進められるのではないか、という思いが育ってきました。

1年間のお礼を申し上げますとともに、来年度の2年生に進級をさせて下さいませ。
(滋賀県守山市・51歳・女性・添削指導員〜“森とうみを結ぶ”の言葉を、身近に感じています。娘が森林学、息子が航海学を学ぶ学生で、その母です〜)

☆次回(2004年5月15日)コメンテーター森孝之さん・小夜子さんのご紹介☆

(森孝之さんに書いていただいたものから、掲載させていただきました。)

数年前から、“サラリーマンしながら40年かけて森を創った森さん”と呼ばれるようになりました。そこは病床にあった父が敗戦の前年に買い求め、妻子を西宮市から疎開させ、農業で生き延びさせようとした3反の畑地でした。父が健康を取り戻した1950年頃から放置されており、ウルシやススキが生い茂っていました。

18歳のときに開墾を始め、母の見よう見まねの農法で菜園作りを始めたわけです。工業デザインを学びたくて、一浪して大学に入りましたが、その年から植樹を始め、やがて農業と林業を合体させた庭作りを目指しています。現在では、燃料、果物、薬効、香料などを期待できる樹種が、日陰作り、防風、生け垣、目隠しなどの役割を担いながら、約200種1000本繁っています。

就職先は、大阪の総合商社でしたが、社会人2年生の時に通勤の便が悪いこの土地に金融公庫で小さな家を建てました。社会の流れに逆行と笑われながら半自給生活を目指し、廃水の分別も始めました。今では自生する野生動植物を尊重する循環型のエコロジカルな生活空間になっており、エコライフ・ガーデンと呼んでいます。

職場結婚の妻は、私の両親の面倒も見る専業主婦になりましたが、自己流で人形作りを始め、創作人形作家の肩書きも持ちました。1986年の春に完成した人形工房やカフェテラスは省エネルギー型で、半地下構造、多様なトップライト、部分的ですが芝屋根、関西発の民間ソーラー発電器などローテクからハイテクまで採用し、化石資源への依存率を下げています。

この時を契機に、この循環型生活空間に“アイトワ”という名を与えて一般開放に踏み切りました。アイトワ(aightowa)は、「愛とは?」「愛と環」「愛永遠」の三つの意味を込めた私たち夫婦の造語です。カフェテラスはわが国初の禁煙喫茶店といわれます。

この間に、工業社会に不安を感じて商社を辞めています。その後、再就職した衣料企業もバブルに酔う経営に不安を覚えて辞め、1988年に処女作『ビブギオールカラーポスト消費社会の旗手たち』(朝日新聞社)を上梓しました。単色のホワイトカラーやブルーカラーの時代ではない、多彩なビブギオールカラーになろうとの提唱です。VIBGYORとはヴァイオレットのVから始まりレッドのRで終わる虹の頭文字を綴っています。

新刊の『次の生き方 エコから始まる仕事と暮らし』(平凡社)は、このような庭作りに手をつけたわけや、その効果や楽しさや意義などに触れることから始まっていますが、すべての人が自分らしく生きることによって、「最小の消費で最大の幸せや豊かさを求める生き方」を実現しよう、と呼びかけています。

【森孝之プロフィール】
  • 1938年 兵庫県西宮市に生まれる
  • 1944年 京都・嵯峨に疎開、住み着く
  • 1962年 京都工芸繊維大学卒業、伊藤忠商事入社
  • 1986年 ワールド取締役及びノーブルグー社長を辞任
  • 1987年 アイトワ設立。ライフスタイル・コンサルタントとして執筆、講演、企業顧問などの活動に入る
  • 1992年 大垣女子短期大学教授
  • 2000年 大垣女子短期大学学長
  • 2004年〜大垣女子短期大学名誉教授
<主な著作>
  • 『「想い」を売る会社』日本経済新聞社,1998年
  • 『庭宇宙』遊タイム出版,2002年,森小夜子と共著
  • 『次の生き方 エコから始まる仕事と暮らし』平凡社,2004年(4/7予定)
【森小夜子プロフィール】
  • 1969年 桑沢デザイン研究所卒業、デザイナーとして商社勤務
  • 1973年 結婚を期に退職、創作人形の世界に入る
  • 1986年 人形工房&カフェテラス『アイトワ』オープン(京都・嵯峨野)
  • 1992年 NHKテレビ「婦人百科」出演
  • 1993年 『アイトワ』に人形展示室オープン
  • 2004年 NHK文化センター講師
<主な展示会>
  • 1985年「森小夜子人形教室展」開催、以降1年半ごとに定期開催
  • 1993年〜「民族の賛歌」をテーマに数々の人形展を開催(新宿三越,銀座松屋,京都大丸など)
<主な著作>
  • 人形作品集『lou lan(ローラン)』,1990年
  • 人形作品集『民族の賛歌』,1998年
  • エッセイ『人形に命を込めて』大和書房,2001年
  • 人形作品集『大地に希望の風を』,2001年
  • 人形作品集『いつか鳥のように』,2004年
アイトワ 〒616-8396 京都市右京区嵯峨小倉山山本町1
ホームページ:www2.plala.or.jp/machami/aightowa

◆新聞の記事から◆

〜支局長からの手紙〜
「アルプスの少女ハイジ」

元気にヤギと走り回るアルプスの少女ハイジの姿が浮かんできました。長野県の南アルプスのふもとにある大鹿村の小林俊夫さん(58)の話に耳を傾けていた時のことです。

彦根市の県立大で20日に開かれた「菜園家族の学校」。経済効率優先の社会を見直し、大地に立って人間本来の豊かな生活を取り戻そうとそれぞれの生き方を話し合う場です。小林さんはコメンテーターとして、農業を志した人生を振り返りました。そして、日本の子どもたちもハイジのように育ってほしいと夢を語りました。

農家の次男。中学を出て会社勤めをしますが、生きる喜びを実感するには農業しかないと帰郷します。1ヘクタールの山林を譲り受け、ノコギリとナタで木を切り倒す開拓を始めました。生きていくために牛とヤギを飼い、チーズ作りに挑戦しました。2人の娘も一緒に働きました。標高1000メートル。牧草作りからこだわり、風土を生かす経営をしています。南アルプスの自然そのものが生んだチーズは高い評判を呼んでいます。

その一方で、母校の大河原中の保存運動にも立ち上がりました。戦後間もなく、新しい時代を子どもたちに託そうと、村人が総出で資金を調達し知恵と汗を振り絞って建てた学校です。取り壊されると知り、仲間と費用を出し合って校舎半分を移築して復元しました。今、戦後教育のシンボルとして、農業体験ができる場となっています。

小林さんは「百姓をしていると日本の国、世界が見えてくる」と言います。ある村人は「何頭飼えるかに挑戦する」と宣言し、国から多額の補助金を得て大きな牛舎を建てたそうです。小林さんの小さな牛舎は国の補助対象にはなりませんでしたが、こつこつと借金を完済しました。しかし、村人はまだ借金に苦しんでいるそうです。今、3頭の乳牛とヤギを飼う小林さんは「足るを知ること。何頭飼えるかではなく、何頭で生活できるかだ」と話しました。

野山を駆け回って育った経験から、自分の力で生き抜くことの大切さを繰り返しました。そして、日本の平和憲法の崇高さを訴えました。日々の農作業を通じ、人が人を思いやる心が平和憲法の根本にあると確信したからです。人類の知恵である憲法の理念に立ち戻らねば人類は滅ぶとまで言い切りました。

日本の将来には強い危機感を抱いています。チーズ作りを学びに行ったスイスでは、子どもたちが一生懸命に農作業を手伝っていましたが、帰国してすぐ目にした光景は夜遅くまで塾通いをする日本の子どもたちの姿。大鹿村でも、子どもたちは家に閉じこもってテレビゲームに夢中になっているそうです。

ハイジのように、力強く生きる力が国全体から失われているのではないか。小林さんの問いかけです。イラクへの自衛隊派遣決定に見られるように、いつでもアメリカにべったり。自分の力で問題解決に立ち向かおうとしない国のありようをズバリと指摘しました。その言葉を深くかみしめたいと思います。

【大津支局長・塩田 敏夫】
(2003年12月29日付毎日新聞)

☆“学校”のお知らせ☆

次回の“菜園家族の学校”のコメンテーターは、以下のように予定されています。

*5月15日(土):森 孝之さん・小夜子さん(エコライフ・ガーデン“アイトワ”,京都市右京区嵯峨)
孝之さんは、高度成長時代、企業社会のただ中に身をおきながら、いち早くその限界性に気づき、京都・嵯峨野の地に黙々と木を植えつづけ、動植物と共生する循環型の生活空間を築き上げてこられました。ここには、奥さまで創作人形作家の小夜子さんの人形工房や展示室、カフェテラスもあり、一般開放もされています。ご夫婦の長年のコラボレートの結晶であるこの空間は、今、エコライフ・ガーデン“アイトワ”として円熟し、夢と希望を発信しているのです。

編集後記

皆さまのご熱意に支えられ、“菜園家族の学校”も2年目をむかえます。いつの時代も人間が希求してやまない自由と平等と友愛。その大いなる山に、先人たちがひとつひとつ努力を重ね、積みあげてきた歴史があります。昨今、不思議な諦めのうちに、それらがいともたやすく崩されてゆく空しさが漂っています。しかし、この“学校”を展開する中で、それでもなお全国各地で市民の皆さんが、真摯に多様な取り組みを続けておられることを知り、励まされました。私たちのこの“学校”も、ささやかながら、先人たちの歴史にひとつの小さな石を積み重ねることができればと願い、再スタートをきりたいと思います。(伊藤恵子)

Nomad image
Copyright (C) Nomad,All Rights Reserved.