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・東日本大震災にあらためて思う ―人が大地に生きる限り― 2011.4.2(土) |
・東日本大震災、その後 ―宮城県南三陸町、再出発への胎動― 2011.6.3(金) |
・東日本大震災、その後(追記) 2011.6.29(水) |
・再開!南三陸町「千葉のり店」―続報 宮城県南三陸町、そしてつながる滋賀県 多賀とのご縁― 2011.10.12(水)![]() |
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2011年10月12日(水)晴れ 再開!南三陸町「千葉のり店」 ―続報 宮城県南三陸町、そしてつながる滋賀県多賀とのご縁― |
今年は秋の訪れが早く、琵琶湖の東側に連なるここ鈴鹿山脈の奥山では、日が暮れる頃にはスッと冷え込んできます。
![]() 大君ヶ畑の区民運動会(滋賀県多賀町) 想定外の子供たちの参加に喜び、急遽、子供たちの かけっこ種目を加える。見物のお年寄り・大人たちも大はしゃぎ。 (大君ヶ畑の宮河秀樹さん撮影) 3連休とあってか、いつもは見られない若者たちや、若いママさんとなって小さな子供を連れた娘さんたちも、久しぶりの里帰り。過疎・高齢化が進み、15年前に廃校となった小学校分校跡地のいつもはひっそりとした体育館は、いつになくにぎやか。息子、娘、孫たちが揃い、お父さん、お母さんたちもうれしそうでした。
お昼は戸外にテーブルを並べ、山の緑に囲まれた運動場で、うどんや焼き鳥、そして若い人たちが前日から準備してくれたというカレーを、子供からお年寄りまでみんなでいただきました。毎年、この時に掲げられるテーマ「世代を超えてひとつになろう!」の言葉通り、楽しい和やかな運動会になりました。 ![]() お昼休み 体育館の外、鈴鹿の森に囲まれた犬上川の渓流のほとりで、 若者たちが作ったカレーや婦人部によるうどんなどで楽しむひと時。 (宮河さん撮影) それにしても、若者たちのお母さんでもある婦人部のみなさんは、春の「ステーション(道の駅)祭り」、夏の草刈り清掃をはじめ、集落の行事の時は、いつも大奮闘です。子育て以来の長いお付き合いの中で積み重ねられてきた見事なチームワークで、笑顔のうちに何でもやり遂げてしまわれるのです。
――― * ― * ― * ――― さて、運動会の楽しさがまだ消えぬ翌日の10月10日の早朝、里山研究庵に思いがけない電話が入りました。ここ奥山の大君ヶ畑から犬上川に沿って一つ下の集落(佐目地区)に事務所を置く、株式会社マルトの取締役会長・澤田藤司一(としかず)さん(75歳)からです。マルトは、製材業から出発し、環境共生をめざして近江の森と樹を活かす家づくりに取り組み、木工製品や竹炭、チップなどの製造販売も手がける、地域にに根ざした家族メンバー主体の会社です。
![]() 澤田藤司一さんご夫妻 (鈴鹿山中・多賀町佐目のマルト事務所にて) 普段は控えめでシャイなその藤司一さんが電話でおっしゃるには、何とこの「山中人語」でも4月以来、何度かお伝えしてきた宮城県南三陸町の創業90年の海苔加工・販売「千葉のり店」のことを、たまたま中日新聞の記事(2011年8月24日付「中日春秋」)で読み、居ても立ってもいられず、9月19日に現地まで訪ねて行ったというのです。 このたびの東日本大震災による大津波で壊滅的な被害を被ったこの町で、代々この「千葉のり店」を営んできた千葉ひろ子さん(61歳)・公子さん(58歳)姉妹が、ほとんどの家屋が押し流され、焼け野原のようになってしまったかつての中心街で、それでも立ち上がって、もともと自宅とお店があった敷地内にプレハブ小屋をぽつんと一軒建て、8月上旬に営業を再開したというこの記事にいたく感動して、駆けつけたとのこと。
![]() 骨組みだけが残る宮城県南三陸町の防災対策庁舎
(2011年9月、澤田藤司一さん撮影。以下の写真も同じ。) ※ 防災放送の担当職員だった遠藤美希さん(24歳)は、この建物の2階でマイクを握りしめ、高台への避難を最後まで呼びかけ続け、ついに津波に呑み込まれていった。後に触れる千葉裕樹君と同じ中学校の2学年下の後輩にあたるという。 ![]() 旧防災対策庁舎の近くで再開した「千葉のり店」 もともと自宅兼店舗があった敷地にプレハブを建てた ![]() 「千葉のり店」3代目の 千葉ひろ子さん(右)、公子さん姉妹 その後、藤司一さんの娘の順子さんがインターネットで調べていたら、私たち里山研究庵も、この「千葉のり店」の店主姉妹の甥っ子で、今は大阪で働いている千葉裕樹君(25歳)と、数年前から「菜園家族」構想を通じて交流があることが分かり、被災地から遠く離れたこんな山奥でのあまりにも偶然の重なりに驚いて、お電話して下さったのでした。
電話を受けた小貫先生が、早速、佐目集落のマルト事務所を訪ねると、現地で撮影したお写真や、千葉さん姉妹から届いたお手紙などを見せて下さりながら、いろいろとお話を聞かせて下さったそうです。
そして、これを1回限りで終わらせるのではなく、恒常的な交流活動につなげていきたいと、藤司一さんは、いろいろとアイデアを練っておられるようです。
多賀の山の幸・野の幸の郷土料理も加えれば、農や地域づくりに取り組む地元の人たちにも、活気が出てくるのではないか ・ ・ ・。などなど、藤司一さんの夢は広がります。
――― * ― * ― * ――― この様子を「千葉のり店」の甥っ子の裕樹君にも、早速電話で伝えたところ、とても喜んでいました。裕樹君も、大震災から間もなくして、南三陸町の小学校以来の同級生たちに呼びかけ、「南三陸の懐かしい未来を実現する会」を発足させ、若い世代としてふるさと再生に奮闘しています。
この会のメンバーは、8月13日の夜に南三陸町で行われた「こども夢花火〜10年先の花を咲かそう〜」に準備の段階から力を出し、また、同じ日のお昼には、志津川高校を会場に、「なつ地図祭り〜南三陸の懐かしい思い出の地図を描こうプロジェクト〜」を開催。
南三陸町出身といえども、普段は町内外や全国の各地に離ればなれに暮らす「南三陸の懐かしい未来を実現する会」の若者たち。日々の仕事で忙しい中にも、何とか工夫して話し合えるようにと、週末の夜、インターネットを利用して何度も会議を重ね、長い間時間をかけて企画・準備しました。 この集いの様子は、「南三陸の懐かしい未来を実現する会」の情報発信班の勝倉慎介君や板倉広和君たちが作っている同会のホームページに、報告が掲載されることになっています。
こうした東北被災地の若者たちの動き、そして「千葉のり店」をはじめ、ふるさとの自然と人のつながりに深く根を張ってなりわいと暮らしを営んできた人たちの動き、さらには、滋賀県の多賀町商工会の澤田藤司一さんたちのように、被災地から遠く離れた地でも、ふるさと再生への思いを同じくする人たちの動き。
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2011年6月29日(水)晴れ 東日本大震災、その後(追記) |
前回のこのコーナーで、宮城県南三陸町の若者たちが、ふるさとの復興をめざして集い、動きはじめたことについてご紹介しました。
☆ 南三陸の懐かしい未来を実現する会ホームページ
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2011年6月3日(金)くもり 東日本大震災、その後 ―宮城県南三陸町、再出発への胎動― |
今年は、五月晴れも少ないまま、早々と梅雨に突入しました。
![]() 鈴鹿山中・大君ヶ畑の初夏 そんないのち息づく季節をむかえた今、東日本大震災から数ヵ月が経った東北の被災地や福島原発の周辺地域の方々の暮らしはどうなっているのだろう ・ ・ ・と、その後の様子をテレビのニュースやルポルタージュ番組、新聞、雑誌の記事などで追わずにはいられません。 ――― * ― * ― * ――― そんな中、前回4月2日付のこの「山中人語」で触れた、宮城県南三陸町出身の青年・千葉裕樹君から、5月6日にうれしいE-mailが届きました。
![]() 「やはり写真や映像とは違い、現場で見ないと分からない壮絶さがあったように思います。写真でよく出ない場所も含め、被災地のダメージはまだまだ回復できていません。
また、現場の人々の状況ですが、詳しくはいずれ文章にまとめたいと思いますが、大阪や関西の人々とはやはり意識がぜんぜん違います。宮城県に入るとほとんど全ての人に暗い影が差しているように感じました。しかし、それぞれが本当に復興について真剣によく考えていることも分かりました。生きるたくましさのようなものも感じました。
そんな中、自分は自分の郷土を同じくする同級生30名程度を集めて、復興について考える会議をやり、グループを組織して実際に復興に向けて動き出すキックオフをやってきました。
もちろん事前に連絡は取り合っていたことでしょうが、それにしても短期間の滞在にしては、思わぬ進展ぶりにびっくり!
――― * ― * ― * ――― その後も、被災地の復旧・復興に関する情報・資料をいろいろと探し、集める日が続いています。
![]() 老舗のり 香り再び 宮城・南三陸町 〜 加工店再建へ姉妹懸命 〜 利用できる制度なく・支えは顧客の励まし 東日本大震災で1,200人近い死者・行方不明者を出し3,877家屋が全壊した宮城県南三陸町。津波で工場、店舗、自宅を流された創業90年のノリ加工販売店3代目の千葉ひろ子さん(61)、公子(こうこ)さん(58)姉妹は事業再開に向けて懸命に取り組んでいます。
![]() 自宅兼店舗があった場所を眺める千葉さん姉妹。
左奥に見える骨組みだけの建物が南三陸町防災対策庁舎 (2011年5月21日撮影。記事より転載) この道一筋
条件が多く
――― * ― * ― * ――― 海辺の地元に根を張って生きてきたおばさんたちの、未来への勇気、揺るがぬ意志に感服です。
こうした地域に生きる一人ひとりの思い、それぞれの家族の地道な努力をよそに、報道によれば、被災地の人々の感覚からはかけ離れた上からの復興構想・復興計画が着々と準備されているようです。5月27日には日本経団連が、「復興・創生マスタープラン〜再び世界に誇れる日本を目指して〜」を発表しました。
※ 緊急提言「東日本大震災から希望の明日へ ―大地に生きる人間復活の道は開かれている―」(2011年4月23日より当ホームページで公開中)をぜひご一読ください。 |
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2011年4月2日(土)晴れ 東日本大震災にあらためて思う ―人が大地に生きる限り― |
この冬は、寒さと雪がいつまでも長引いた。3月近くになって、ようやく明るい太陽の光が戻り、福寿草が鮮やかな黄色の花をちらほら咲かせはじめた。長らく深い雪に閉ざされていた鈴鹿山中・大君ヶ畑の集落の人たちも、待ちに待った春が来たとばかりに戸外に出て、小道での立ち話や屋根の修繕などに、にわかにうごめきはじめていた。 ![]() 里山研究庵の近傍を流れる芹川、やがて琵琶湖に注ぐ しかし、それも束の間、また鉛色のどんよりと重いあの寒々とした雪空が戻ってきた。どうも今年は、すっきりと春が来ない。再び気分もふさぎがちに、琵琶湖畔の街・彦根で、部屋のこたつで丸まっていた。 そんな頃、3月11日、14時46分、建物が横に大きく揺れるのを感じた。琵琶湖からの真冬さながらの寒風が強く吹きつけ、荒れ模様になってきたためなのかと、一瞬、窓の外に目をやる。電線が大きく揺れている。やっぱり嵐? ・ ・ ・でも、何だかおかしい。だんだん船に酔ったように、頭がくらくらとしてきた。台所の方を振り返ると、つり下げた調理用具が激しく揺れている。
――― * ― * ― * ――― 当里山研究庵主宰の小貫雅男先生のふるさと、北関東・茨城県でも大きな被害があった。ご兄弟たちへの安否確認の電話もなかなかつながらず、先生も心配していた。家屋の大きな損壊こそ免れたものの、電気、ガス、水道などライフラインすべてがストップ。数日後、ようやく電気だけは復旧したが、その間、寒さを堪え忍んで暮らしておられたそうだ。 中国東北・旧満州生まれの小貫先生は、終戦の翌年、11歳の時、ご両親と7人兄弟におばあさんを加えた総勢10人のご家族みんなで、母方(萩谷家)の在を頼って、常陸太田の農村に引き揚げてこられた。阿武隈山麓、久慈川流域の豊かな自然の恵みに支えられ、親戚や村の人たち、新しい時代の息吹に満ちた学校の先生たちに囲まれて過ごした伸びやかな少年時代については、ゼミ生ともども折に触れて話を聞かせてもらってきた。
そんな小貫先生のふるさと自慢の一つ、北茨城・五浦(いづら)海岸にそそり立つ断崖絶壁の上の六角堂も津波にさらわれ「滅失」と、数日後の報道で伝えられた。明治38年(1905年)、太平洋の大海原を望むこの地に思索と創作の堂を建て、日本美術院の拠点を移したという岡倉天心の気概と、その雄大な絶景について、話を聞いていただけの私でさえ、何とも言いようのない深い喪失感に沈む。 ――― * ― * ― * ――― 連日のニュースに注目しながら、茨城とともに気がかりだったのが、そこからさらに北に上がった宮城県の海岸沿いの漁村の状況である。
震災後まもなく、各地の被災状況を伝えるニュースによると、宮城県北部の南三陸町という所は、もっとも被害が深刻で、町民約1万8,000人のうち半数以上が行方不明という。手元の地図を広げ、以前、千葉君に教えてもらった出身地の位置と、ニュース画面とを見比べつつ、「いや、違う町名だったはず。 ・ ・ ・違っていてほしい ・ ・ ・」と念ずる。
――― * ― * ― * ――― 3月18日、震災から一週間後のニュースを見ていると、その南三陸町で自ら被災しながらも、避難所の生活支援活動に精一杯取り組んでいる地元高校生の姿があった。この春卒業というその男の子は、お父さんの後を継いで、ふるさとで漁師になるつもりだったという。今はその目処も立たない。何もかも津波で流されてしまったが、支援物資を仕分け、各避難所へ運ぶ作業の合間に同級生数人と海を眺めながら、それでも「やっぱりここが好き」と。海は、何事もなかったかのように、青く穏やかに輝いていた。 三陸海岸の名だたる漁港や、数々の小さな集落のほとんどすべてが壊滅状態、広大な農地の被害も甚大だという。長い歴史の中で、土地の人々の営みによって築きあげられてきたこの地域の暮らしは、これから一体どうなってしまうのだろうか ・ ・ ・、と打ちひしがれていたのだが、この高校生の姿をはじめ、報道を通して伝わってくる地元の人たちの言葉に、逆に元気づけられるのであった。
計り知れない恐怖と悲しみと絶望の中、「もう海なんか見たくない」と言う方もおられよう。そして、これからの長い長い苦難の道のりを思えば、遠方の者がおいそれと軽々しいことは言えないのであるが、自然に拠って生きる人たちの強さに、ただただ畏敬の念を抱くばかりである。
――― * ― * ― * ――― それにしても、原発の放射能である。戦後、小貫先生一家をはじめ、村の人々みんなのいのちを支えた山河と海をも穢しているのだろうか。春待つどじょっこ、ふなっこはどうしているだろうか。
私たちは、昨2010年5月から、改訂を重ねながら『菜園家族宣言―静かなるレボリューション―』をまとめ、このホームページで公開してきた。その中で、「新成長戦略」と銘打ち、原発の国内増設と海外へのトップセールスに走る昨今の傾向を厳しく指摘してきた。
福島原発事故は、これまでの市場競争至上主義「拡大経済」の生産と消費のあり方をそのまま続けることは、もはや不可能であることを私たちに厳しくむごい形で教えている。これまでとはまったく違った新たなパラダイムのもとに、これからどのような日本を地域から一つひとつ築き上げ、積み上げていくのか。
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歴史がどんなに人間の思考を顛倒させようとも
人が大地に生きる限り (映像作品『四季・遊牧―ツェルゲルの人々―』
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