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作品紹介
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作品紹介各巻の概要
第一部―再生への模索― 上 巻 ( 1時間08分 ) 下 巻 ( 1時間14分 )
第二部―試行を重ねる― 上 巻 ( 1時間17分 ) 下 巻 ( 1時間28分 )
第三部―歓喜、そして思索― 上 巻 ( 1時間13分 ) 下 巻 ( 1時間28分 ) 作品のあらすじ
伊藤恵子 第一部(上巻) 1992年の晩秋。東ボグド山・ツェルゲル村は、長く厳しい冬の到来を間近に控えている。 調査隊が1年間、お世話になるツェンゲルさん一家とその弟の家族は、すでにこの山の西の麓にある標高1500メートルの冬営地に移り、ゲルを建て、冬支度に余念がない。
広々とした乾いた大地に、ヤギ・ヒツジを一日中、放牧する。これも、まもなく訪れる本格的な雪の季節に備えて、家畜たちに体力をつけるためだ。 まだ山腹の秋営地にいるアディアスレン家。10月中旬、いよいよラクダに荷を積み、ツェンゲルさんたちの住む冬営地の近くに、引っ越してゆく。 もうまもなく、厳しい冬がやってくる。
(下巻) 11月に入ると、厳しい吹雪とともに、零下20度を下る本格的な冬の暮らしがはじまる。吹雪の直前に、一冬分の牛やラクダの食肉を準備してしまう。この土地に生まれ育った、ツェンゲルさんたちの鋭い勘である。 森林のないこの半砂漠地帯の山では、燃料の確保は、深刻な問題である。ゲルの中で暖をとるにも、食事をつくるにも、雪を溶かして飲料水をつくるにも、谷間にわずかに生育する灌木が頼みの綱。ツェルゲルの“没落貴族”アディアスレンさんの妻トゴスさんも、雪の中をたきぎ取りに出かける。
深い雪に閉ざされた日、ツェンゲルさんから一日中、ゆっくりツェルゲル村の昔のことを聞く。厳しかった家畜の国家供出のこと。村を襲った大旱魃と大雪のこと。村を捨てて、豪雪の中を隣村まで緊急避難したこと……。 ルリンの壁の崩壊と民主化の波の訪れは、ツェルゲル村にもおよぶ。「地域」再生に取り組むツェンゲルさんたちは、南北20キロ、東西40キロに散在する60戸の一つ一つを訪ねてまわり、新しい遊牧民の組織づくりを呼びかける。過去の集団化経営へのアレルギーがありながらも、遊牧民たちは、真剣に新しい地域づくりを目指して動き出す。 ついに、12月4日、厳しい寒さの中、ラクダや馬に乗り、集まった遊牧民たちは、協同組合ホルショーを結成することになる。
第二部(上巻) ツェルゲル村では、新しい協同組合ホルショーの結成後、長年の夢である村内分校開校に向けて動き出す。 年が明けて、1993年の1月、ボグド郡全域を支配していた集団経営ネグデルは、ついに解散。それに伴い、ツェルゲル村で生まれた新しい協同組合“ホルショー”は、郡内の他の村にも波及してゆく。 厳しい寒気の中、各家々では、仔ヤギ・仔ヒツジが続々と誕生する。雪に閉ざされた冬の暮らしの中にも、新しい生命の誕生によって活気がみなぎる。
2月22日、旧正月の元旦。大晦日には、家族そろってのおせち料理づくり、初日の出前の羊頭裂きの儀式、元旦のお年始まわりと、村は一気に明るさをとり戻す。 お正月が明けるとすぐ、ツェンゲルさんたちホルショーの代表者数名は、北東750キロ先の首都ウランバートルへと向かう。春のカシミヤの販路開拓が、一行の最大の目的である。市場経済へ移行し、都市では新興商人があらわれ、遊牧民たちの取り組みに立ちはだかる壁は厚い。
(下巻) 3月、雪が解けると、今度はすさまじい砂嵐が吹きすさぶ。この砂嵐が、モンゴルの大地では、春の訪れの合図なのである。春の陽気に浮かされて、ツェンゲル家の子供たちもゲルを飛び出し、仔ヤギたちとたわむれる。ままごと遊びをしたり、生き生きと動き出す。
そして、7月、待ちわびた夏が一気にやってくる。ツェンゲル一家、弟のフレル一家も、長い冬を過ごした山麓を後に、さらに高度を上げて、標高2000メートルの夏営地へと引っ越していく。少ない降水の一滴も逃すまいと、ゴビの草たちは体内に滋養をいっぱい詰め込む。 ヤギたちはその草を日がな一日食べて、朝・夕2回、ふんだんに乳を人間たちに提供してくれる。ヤギの乳搾り、乳製品づくりと、女たちは休む暇がない。 夏のもう一つの風物は馬乳酒。遠方の放牧地に放っておいた馬群を仔馬とともに連れ戻し、馬乳の初搾りのお祝いをする。 夏営地からさらに山を登り、“没落貴族”アディアスレンさんの道案内で、標高3590メートルの東ボグド山頂に迫る。高度が上がるにつれ、草の緑は濃くなる。さわやかな風に揺れる花々。冷たい雪解け水を集めてほとばしる清流のほとり。奥深い谷間の遊牧民たちは、野生のお茶やタマネギ、きのこなど、貴重な高山の恵みを取り入れ、暮らしを愉しんでいる。
第三部(上巻) ツェンゲルさんの次女ハンドは7歳。お転婆でおませなこの少女は、母や姉の仲間入りがしたくてたまらない。ヤギの搾乳、馬乗りの初げいこ。母に頼まれ、砂漠に群生する野生のニラ摘みにも出かける。この村に生きる遊牧民の娘として、成長してゆく。
短い夏を惜しむように愉しむツェンゲル一家。午後のひとときの一家団欒。栄養たっぷりの自家製のヤギのヨーグルト。少し酸味のきついチーズも食べ、冬に疲れた遊牧民の体力も、回復してゆく。 一方、冬、結成された遊牧民協同組合ホルショーは、手紡ぎ・手織りのサークル活動をはじめる。女性たちは、合宿をするほどの熱心さだ。今、再び、手づくりの伝統を「地域」に生かすことの大切さを実感する。
(下巻) いよいよ9月1日、村のみんなの念願だった分校が開校。これを記念して、ナーダム祭りが開催される。周辺の村や郡からも、大勢の人々がつどい、モンゴル相撲に子供競馬を愉しみ、ツェルゲル村は喜びであふれている。 分校の始業日。乳搾りに忙しい朝、遅刻をする生徒もいる。3学年合わせて生徒45人、先生4人。分校最初の鐘が鳴る。子供たちや父兄たちも、先生方も、希望に胸がふくらむ。
長いようで短い一年であった。再び晩秋をむかえ、お世話になった“没落貴族”アディアスレン家を訪ねる。これが最後の訪問になる。たそがれに沈む谷間のゲルの中、問わず語りに、この土地に生きる苦しみや愉しみ、自らの生きる信条を、しんみりと語ってくれる。 ツェンゲルさん、アディアスレンさんたちは、晩秋の高原で、狩りのキャンプをする。はるか遠方を見渡せば、親しみ慣れたいつもの“王妃座山”が、砂漠の中に浮かんで見える。この小山にまつわる伝説や風習、そしてキャンプの火を囲んで語る言葉の一つ一つにも、この土地に生まれ育ち、また大地に還ってゆく遊牧民たちの人生観が、にじんでいる。
解説
―独自の世界にひたる―小貫雅男 私たちは、21世紀を目の前にして、この10年間、世界の歴史の大きな転換期に生きてきた。この転換への激動は、世界の主要部にとどまらず、地球の辺境といわれる地域にもおよんでいくのであるが、そこで惹起された問題は、何も解決されずに、今に残されたままである。 1980年代、ソ連・東欧にはじまるペレストロイカの波は、内陸アジアの草原と遊牧の国モンゴルにも押し寄せ、遊牧の社会主義集団経営ネグデル体制は、かげりを見せはじめていた。 1989年11月のベルリンの壁の崩壊は、決定的なインパクトをもって、やがてモンゴルの全土を市場経済のうずに巻き込んでゆく。旧体制の崩壊の中から、地方では伝統的な遊牧共同体の再生への動きがはじまり、新たな「地域」の可能性があらわれてくる。 こうした世界史の大きな転換期の中にあって、ツェルゲルの人々は、自らのいのちと暮らしを守るために、新たな「地域」の可能性をもとめて模索をはじめたのである。 ツェルゲルとは、モンゴル国のバヤンホンゴル県ボグド郡ツェルゲル村のことである。モンゴルがアジアの片田舎であるとするならば、ツェルゲルは、そのまた片田舎の一小地域社会である。首都ウランバートルから南西へ750キロ。大ゴビ砂漠地帯に連なるゴビ・アルタイ山脈の中の東ボグド山中にある東西40キロ、南北20キロの範囲に広がる遊牧民60家族が暮らしている村である。 この村の東の高山部には、3500メートルの東ボグド山頂が聳え、西にゆくにしたがって低くなる。遊牧民たちは、比較的低い西の麓近くの標高1500〜2000メートル一帯に冬営地をかまえ、初夏をむかえると、東の3000メートル級の緑濃い高山部に移り住む。両者の間を上下の移牧をおこなって、四季折々の自然の変化を実に巧みに使いわけて暮らしている。四季を通してほとんど山岳地帯を利用しているので、家畜はヤギが圧倒的に多い。 このツェルゲル村がある広大な砂漠と山岳からなるボグド郡の中心地には、オロック湖という湖がある。この岸辺には、郡役所、病院、小中学校、郵便局、売店などの施設がある。人口1000人ぐらいの小さな田舎町を形づくっている。しかし、この町はツェルゲル村からは70キロも離れたところにあるので、ツェルゲルの人々は、これらの公共施設を事実上利用できず、郡内の最東端の山中にあって、ひっそりと暮らしている。こうした地理的条件もあって、ツェルゲル村はボグド郡の中では、孤立した存在ではあったが、かえってそのことが最も自立心の旺盛な土地柄にしてきた。 こうした土地柄もあって、ツェルゲルの人々は、旧体制の厳しい監視下のもとにあった時から、自立への動きをはじめたのである。世界の動きから遠く離れたこうした山中にありながらも、ツェルゲルの人々は、土着の“共同の思想”に裏打ちされた極めて先進性豊かな“協同組合構想”を心に描き、その実現への手がかりを模索していたのである。 この作品は、1992年の秋からはじまる一年間のツェルゲルの人々のこの “模索の動き”を縦糸に、ツェルゲルの四季折々の自然と、その中に生きる遊牧民の暮らしの細部や人々の心のひだをも組み込みながら、独自の世界を美事に紡ぎ織りなしてゆく。 この“模索の動き”のいわば縦糸を紡ぐツェルゲルの人々。その中のリーダーの一人であるツェンゲルさん(35歳)とその家族。生活の辛さも満面に笑みを湛えて吹き飛ばしてしまう肝っ玉母さんのバドローシさん(31歳)。自然の中に溶け込むようにして飛びまわる次女のハンド(7歳)や食いしん坊の御曹司セッド(5歳)。ツェンゲルさんよりも年上で、彼とは苦楽を共にしてきた同志でもあり、貧乏ではあるが誇り高い“没落貴族”のアディアスレンさん(42歳)とその家族たち。……これら次々と脳裡に蘇ってくる作中のどの人物をとってみても、海の向こうの人々とは思えない。身近で、親しみ深く、等身大の生身の人間として立ちあらわれてくる。 乾燥しきった大砂漠の中の山岳地帯。疎らにしか生えないわずかばかりの草をヤギたちに食べさせ、その乳を丹念に搾り、チーズをつくり、乳製品や家畜の肉を無駄なく大切に食して命をつなぎ、つつましく暮らしているこれらの人々が、なぜか気高く映るのである。一方、断片的でこま切れな情報の氾濫と喧噪に刺激され、際限なく拡大してゆく欲望と消費と生産の悪循環の中で、あくせくと働き、精神をズタズタにされた現代人。その末路がどんなものであるのか、そのことが漸くおぼろげながら見えはじめてきた時、貧しくもつつましく生きるこのツェルゲルの人々のひたむきな生き方に、幽かな21世紀への光明を見た思いがしたのかもしれない。三部作全6巻7時間40分の独自の世界に、いつの間にかどっぷりと浸ってゆく。 “輝く朝が播き散らしたものを……”ではじまる冒頭の詩は、古代ギリシャの女流詩人サッフォーの作によるものである。朝に東から太陽が昇り、夕べに西に沈むこの天体の運行に身をゆだね、自然の中に溶け込むようにして日々繰り返しおこなわれてきた家畜たちと人間たちとの共同の営みは、ギリシャの地においては少なくとも二千数百年の昔から、そしてモンゴルのこのツェルゲルの大地では今日においても受け継がれ、時空を越えて、この地球の悠久の広がりの中で、えんえんと繰り返され、何とか今に継承され保持されてきたことになる。 人間にとって本源的で大切なものは何かと問われれば、それは、迷うことなく、今日の私たちには僅かにしか残されなかったこの原初的な部分である、と答えるであろう。作品“四季 遊牧?ツェルゲルの人々?”は、人類が僅かではあるが保持してきた、この本源的なるものの底に潜む思想の核心部分を、現代に今、蘇らせることの大切さと同時に、そのむつかしさを伝え、人間がますます大地から離れてゆく現代の傾向に対して、精一杯の警鐘を打ち鳴らし、人々に再考を促そうとしているのかもしれない。 監修者のことば
ツェルゲルと彦根を結ぶもの〜師弟の論文を読んで〜冨沢満 先日、モンゴル大使館に問い合わせたら、去年モンゴルを訪れた日本人は1万人だという。しかし20年ほど前、私たちがテレビ取材をもくろんだ頃、モンゴルは近くて遠い知られざる国であった。何をどう撮影してきたらよいのか皆目手がかりがなく、途方に暮れていた私たちに「そんなら小貫君に会うのがええわ。」と教えて下さったのは、司馬遼太郎さんであった。その晩、早速池田市にある小貫さんのお宅を訪ね、モンゴルウォトカのアルヒをいただきながら、熱のこもったモンゴル感をうかがっているうちに、取材すべき遊牧の国のイメージが急に湧いてくる気になったのだから不思議である。 当時、小貫さんは二年間のウランバートル大学日本語科交換教授を終えたばかりで、さらに引き続きハンガイ地方に調査に出かける準備をされているところであったが、モンゴルの土地とそこに住む人々への深い愛情に根ざした関心は、歳月を経て今回の論文に述べられているゴビ・プロジェクトへと結実していくのである。そこにはツェルゲル村という地球上の一角に拠点を置き、地域と暮らしのあり方を真剣に模索する小貫さんの変わらない姿勢がある。 そしてこの論文から発せられるメッセージには、見せかけの豊かさの中で迷走する日本の農山漁村の行方や、飢餓に苦しむアフリカの問題をも視野に入れつつ、行き先の見えなくなった世界に、大地に根ざして生きる人間への信頼感を取り戻し、新しい方途を探ろうとする願いが込められている。 その小貫さんが教え子の伊藤さんを紹介して下さったのは4年前のことであった。「伊藤さんはあなた方のモンゴル取材記を中学生時代、おじいさんの書棚から見つけ出して読んでいるうちにモンゴルに憧れ、大阪外国語大学に入学してきたのです。一冊の本が一人の少女のその後の針路を決めてしまうことがあるわけですから、ものを書くということは相当に覚悟のいることで、気をつけなければいけませんよ」小貫さんは笑いながら警告して下さったのである。 実はこのとき、お二人は越冬生活も含めたゴビ・プロジェクトのツェルゲル村現地調査から戻った直後であったが、小貫さん自らがビデオカメラで撮影したという125時間にものぼる映像記録も持ち帰っていた。小貫さんが、いつこのような表現方法に興味を持ち、撮影技術を身につけられたのか知る由もないが、画面にはツェルゲルの自然と村民の姿が正確なカメラアイでとらえられているのであった。そしてその映像の中には、険しい高山地帯を行くヤギの群れをコンパスを持って追跡し、水汲みや乳しぼりを手伝い、ゲル(包)の家族の団欒に加わり、新しい遊牧民協同組合(ホルショー)の結成大会の様子を傍聴したりしている伊藤さんの姿も見えるのである。しかも映像とは奇妙な力を持っていて、この一見物静かでキャシャな感じの女性が、子供に好かれる働き者であり、なかなかの健啖家であり、聞き上手であることをも明らかにしてしまうのであった。 伊藤さんの論文には、ツェルゲル村の人々の血縁関係図や、ツェンゲル家のヤギ100頭につけられたすべての名前とその由来、そして広大な東ボグド山麓に広がる牧営地の配置が克明に記されるなど、その旺盛な好奇心と行動力ならではの基礎的な観察と調査の成果が各所に見られる。そのことが、激変の中で解体し再生する牧野の共同体の、新たな展開を述べるにあたって強い説得力のもとになっていることがわかる。 かつてモンゴルのテレビ取材で私たちの通訳を引受けてくれたエンフトヤ嬢は、ウランバートル大学の小貫さんの教え子であったが、「これからあなた方をモンゴルの遊牧の中心地アルハンガイに案内しますが、そこには家畜に関して数えられないほどの専門用語があります。それをわかりやすく日本語で説明することを思うと頭が痛くなりますが、私は小貫バクシに鍛えられていますから、きっとうまくゆくと思います。もしダメだったら、それは小貫先生の鍛え方が足りなかったと思って下さい。」と笑みを浮かべて小貫バクシに薫陶をうけた自信を語ったことがある。 あれからの20年、伊藤さんの論文を読むにつけても、小貫さんのモンゴル、日本における教え子たちの感化力の強さを思わずにいられない。 ところで、今、お二人はゴビ・プロジェクトの活動の中で取材した貴重な記録映像を構成編集する最終作業に入っているという。「四季、遊牧?ツェルゲルの人々?1992年秋〜1993年秋」とタイトルされる全6巻のこの映像ドキュメンタリーは、論文の精緻さとはまた異なった豊かなメッセージを伝えてくれるはずであり、その完成が待たれるところである。 「彦根はいいですよ、まだ低い屋根の家が並んでいて落ち着きます。しかし、好物の鮒寿しにするニゴロブナや素焼きにするモロコが減っているらしいのが心配です。それにしても水清き岸辺にありて一層朔北への思いがつのります。」という過日の小貫さんの述懐であるが、琵琶湖畔の伝統的な暮らしと文化遺産の消長を気づかうことは直接、モンゴル大草原の自然と人間の営みへの関心につながっていくかのようであった。(滋賀県立大学人間文化学部紀要より転載) 偉大な素人が創った映画『遊牧』久島恒知 1992年7月、私は某乳業メーカーの仕事で遊牧民の乳製品作りを撮影するためモンゴルへ渡った。撮影地としてはまだ経験の少ないモンゴルという国へ、右も左も分からない我々が小貫先生の調査隊へくっついて行ったというのが実情である。我々撮影スタッフは撮り終えたビデオを毎夜ロケバスの中でチェックするのだが、「この画はいい!」「もうちょっとあっちから撮るともっといいかもしらん!」と少年のように目を輝かせて映像に興奮していたのが小貫先生であった。その頃すでに「遊牧」の構想がおありになったかどうかは知る術もないが、その後ご自分の手で8mmビデオを回し始め「遊牧」の素材がそろい始めるのである。 一般に素人の撮り方というのは皆同じで、手持ちで画面が揺れ、ズームをやたらに使い、右へ左へとパンニングし放題、撮れた画は見たいところが充分見れずに欲求不満になる。小貫先生もこういうところからスタートした。 しかし研究熱心な先生はいつの間にか、カメラをじっくりと構えて動かさない撮影方法を会得された。そればかりではなく、インサートカットなどの拾いの画はもちろん、そのシーンの主人公以外の人間(つまり相手役)の静かな表情を丹念に撮るというプロまがいの撮影方法をも習得していたのである。 先生は映画作りのとりこになられたのである。 こうして撮り溜めたビデオはとんでもなく膨大な量になった。荒編集を何度も繰り返し、シナリオは何稿も書き直され、それでも20時間以上あったものを現在の長さにまとめるまで数年がかけられた。 ここからテロップスーパー入れやオーバーラップなどの最終編集作業と、ナレーションや音楽を入れる最終録音作業を行うとビデオ映画は完成する。普通この作業は当然のようにプロの領域の仕事である。小貫先生は編集スタジオや録音スタジオでプロの技術者に指示を出しさえすれば画も音も出来上がるのである。 ところが驚くべきことにこれを全部ご自分たちの手で行われたのである。このビデオ映画をご覧になると、私たちが普段テレビで見るものと何の変りもないきれいな映像ときれいな音で構成されていることが分かる。これを全部自分たちで完成させたと信じられますか? 実はこの映画の製作パートナーである伊藤恵子さんの力なのである。伊藤さんは編集、録音の概念をとても良くご理解され、それに沿ったハード機器の使い分けを短時間に習得されたのであった。そして小貫監督のイメージするところを画と音で丁寧に具体化していくという大変重要な仕事を根気強く一人でされたのである。 お二人がお勤めの滋賀県立大学には我々プロも羨むような編集機のラインナップと録音ミキサーがある。だいたいこの手は宝の持ち腐れになるのだが、お二人はこれを存分に駆使して作業を進めたのである。途中、ナレーションを取る際、スタジオ内の残響音をなくすためにアナウンスブース(小部屋)を作る必要が生じたのだが、アイデアマンの先生はホームセンターからパイプと布を買ってきて、ブースの役割を充分果たす不思議な小部屋をお作りになった。いわば四角いゲルである。 こうして、手作りの、しかしプロ水準の完成度を持った映画が出来上がっていったのである。 この映画は、扱っているテーマの割には重苦しくない。次から次へと起きる興味深い出来事。そこに生じる困難を、時には喜々として乗り越えていく逞しい人びと。そして遊牧という生活スタイルの生み出した驚くべき知恵の数々。さらに全編を通して深まる、登場人物一人ひとりの人間的な味わい。どれもこれもが他の映画とは一味違うリズムで、見ているものをグイグイと引き込んでいく。 それは先生が、自らの手で目の前に広がるドラマをワクワク、ドキドキしながら撮り続けたからなのである。少年のように目を輝かせてのめり込んでいった先生の気分を、見る側も共に体験できるからなのである。 おまけにこの映画には、私達に生きる勇気を与えてくれる感動的なラストシーンさえ用意されているのである。 こんな厚みのある、そしてドラマチックな映画をたった1日、7時間半くつろぐだけで味わえるというのは、何という贅沢なことだろう。 さあ、ゆっくりとご覧ください。
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