山中人語
連載(2005.8.25〜)
2005年12月21日(水)雪空 「三つの柱」 |
例年より早く、また厳しい寒波の到来で、大君ヶ畑は、すっかり雪の中です。
雪に閉じ込められて、テレビをつければ、耐震強度偽装建築の問題でもちきりです。
このことのみならず、この一年を振り返れば、JR西日本の脱線事故、幼い子供たちが犠牲となった相次ぐ殺傷事件など、そのいずれもが、競争原理というものは、人間の倫理をこれほどまでに壊してゆくものなのか、ということを見せつけているように思えてなりません。
人々の意思を正確に反映しない小選挙区制、ずるずると延長されるイラク派兵、医療の分野にまでおよぶ市場原理・・・。大変な問題が山積しています。
雪をかいて通路をあける
『復刊 あたらしい憲法のはなし』(=1947年に文部省から発行された中学校一年用の社会科の教科書。童話屋、2001年)という本を開くと、次のような記述に出会います。
戦争の放棄
みなさんの中には、こんどの戦争に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとうとうおかえりにならなかったでしょうか。また空襲で、家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。いまやっと戦争はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。(中略)戦争は人間をほろぼすことです。(後略)
基本的人権
くうしゅうでやけたところへ行ってごらんなさい。やけただれた土から、もう草が青々とはえています。(中略)草でさえも、力強く生きてゆくのです。ましてやみなさんは人間です。生きてゆく力があるはずです。天からさずかったしぜんの力があるのです。この力によって、人間が世の中に生きてゆくことを、だれもさまたげてはなりません。(後略)
主権在民主義
(前略)国を治めてゆく力のことを「主権」といいます。(中略)みなさんは、主権をもっている日本国民のひとりです。(中略)みなさんは、(中略)ほこりをもつとともに、責任を感じなければなりません。よいこどもであるとともに、よい国民でなければなりません。
里山研究庵から望む
世界中を巻き込んだ、長く苦しい悲惨な体験の後に、この憲法が生まれ、子供たちにとっても、新しい時代への希望として、受け入れられただろうことが、あらためて感じ取れます。
「平和主義」、「主権在民」、「基本的人権の尊重」。
これは、太くどっしりと私たちの暮らしを支えているべき、日本の憲法の「三つの柱」です。
この三つの柱が、60年近くの間に、“偽装”に“偽装”を重ねて、どれだけ細らされてきたことか、と思われるのです。
来年は、様々な場で、ひとりひとりが踏ん張りたいものです。(伊)
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2005年11月23日(水・勤労感謝の日)晴れ 「まぼろしの御池岳登山」 |
お隣りのツトムおじさんは、働き者です。春夏秋冬、毎日、朝早くから、何かしらせっせと体を動かし、忙しく、愉しそうです。
周囲のみなさんも、「あの人のまねは、なかなかできるものではないです」と、感心しきりです。
10月のある日、そのツトムさんが、われらが庵の土間に立ち寄って、「せんせー(関西独特のアクセントで)、秋の御池岳は素晴らしいから、一緒に、登らんか?」と、いつもの満面の笑顔で誘って下さいました。
ツトムさんといつも一緒。
遠出の時には、帰りを待ちわびているのです。
御池岳といえば、標高1247メートルで鈴鹿山脈の最高峰。ここ大君ヶ畑をはじめ、犬上川流域の集落の人々にとっては、恵みの雨をもたらしてくれる、大切な存在です。古くから雨乞いの慣習や、それにまつわる伝説もあります。
登りたい気持ちでいっぱいでしたが、小貫先生も私も、現実的な体力とにらめっこし、残念ながら今回は断念、来春を目標に、何とか足を鍛えてみることにしました。
林道でツトムさんが見つけてくださった
そんなわけで、ツトムさんは、11月はじめのある美しい秋晴れの日、霜ヶ原林道なら、車で御池岳が間近に見える所まで上がれるからと、この頼りない二人を乗せて連れていって下さいました。
深い谷あいをのぼるにつれ、紅葉しはじめた木々と、植林された杉の緑とのコントラストが、美しく見えてきます。
途中、車を降り、「あの山の上には、昔、食糧難だった頃、佐目という集落の畑があったんや」と、ツトムさんが指をさして教えて下さると、その高さに息をのみ、風景が、今までとはまた違って見えてきます。
山上に畑が拓かれていたという
ふたたび車に乗ると、ツトムさんは、運転しながら、語りはじめます。お父さんが、戦争で亡くなってしまったこと。その後、お母さんも、まだ幼かったツトムさんたち三兄弟を遺して、亡くなってしまったこと。母の実家にあずけられ、従兄弟(いとこ)と一緒に育ててもらったこと・・・・・。
普段のツトムさんの元気いっぱいの笑顔は、そんな御苦労があったことを、少しも感じさせません。それだけになおさら、心の奥底に秘めてきた悲しさ、それを乗り越えてきた強さを思わずにはいられません。
こんなに奥山にあっても、どのご家族も、例外などなく、歴史の大きな渦に巻き込まれていったことを、今さらながら思い知らされます。そして、苦楽をともにしてきた大君ヶ畑の人たちの間に結ばれている、人間同士のあたたかな絆を感じるのです。
こうして、この山並みも、人々も、眼下に広がる犬上川・芹川流域地域圏も、いよいよ厚みを増して、私たちに迫ってくるのです。(伊)
鈴鹿山中から望む
*戦後60年の今年、今一度、身近なところから、歴史と歴史教育について、 考えてみませんか?
滋賀県立河瀬中学校の歴史教科書採択問題へ、市民からの呼びかけが出ています。ぜひ一度、お読みください。
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2005年11月13日(日)晴れのち曇り 「雨の中の訪問者」 |
先週の日曜日、冷たい雨の降る、しんみりとした午後、ここ「里山研究庵」の玄関で、「こんにちは」と声がしました。ガラリと戸を引くと、一人の男の方が、立っておられます。
なんでも、この大君ヶ畑の集落からさらに奥へあがった鞍掛(くらかけ)峠の向こう側、三重県の一志郡白山町からはるばる訪ねて来られたとのこと。春5月に同じ三重県の多気郡勢和村で開催された、ドキュメンタリー映像作品『四季・遊牧』の上映会&「菜園家族」構想の講演会の資料を手に握っておられます。
里山研究庵から望む
突然のことに驚きながらも、お話をうかがえば、図書館を核にその会をつくりあげて下さったお仲間のひとり、「野呂ファミリー農場」の野呂さんご夫妻と、お知り合いだということで、ようやく合点がゆきました。
この中山さんは、40代で、お子さんが2人。電力会社でのお勤めの傍ら、農業にいそしむ典型的な兼業農家です。
最初、遠慮がちにポツポツと話しておられましたが、しばらくすると、急に「車から、写真とってきますわ!」と、冷たい雨もかまわず、飛び出して行かれました。
戻って来ると、写真を見せながら、急に生き生きと語りはじめるのです。曰く、アイガモ農法で米作りをやっていて、小学校に連れていって喜ばれた。ハスの花を種から植えて咲かせている。日本ミツバチを飼っている・・・などなど、止まりそうにない勢いです。
中山さんにいただいたハスの実
子供の頃から、自然の中へ入り込み、何かやるのが好きで、上級生から、「山ザル」との名誉あるあだ名をもらったのも、頷けます。
小貫先生が、「会社でワークシェアリングの制度があれば、そんなに好きな農業にかける日数が、もっと増えて、いいでしょうね」と言うと、「言い出すような雰囲気じゃないです」と即答。
土曜出勤もある、そんな現実にもかかわらず、ヤギも飼ってみたい、自然食にも興味がある、自分たちの町は、伊勢湾に注ぐ雲出川という川の中流域に位置しているが、やっぱり、「森と海を結ぶ菜園家族」構想で提起されているように、上流の森から中流の農村、下流の平野・都市を包括する「流域エリア」で捉えて、活動してゆくのがいいと思う、・・・などなど、かえって夢は広がるばかりのようです。
鈴鹿山脈から彦根方面の平野・琵琶湖を望む
(森と湖を結ぶ流域地域圏)
地域地域には、こうして限られた条件の中でも、なお、農という営みに意義を感じ、様々な試みをしている方々がいます。
前回書いたような「改革」の名のもとに、農業に「国際競争力」を求めれば、規模拡大(そうしてさえも、実際には「生き残る」のは厳しいのです)へとむかい、結局、多品目少量生産に基づく、持続可能な、小さな農業の芽を摘んでしまうことになります。
つまりは、工業製品の大量輸出と引き換えに、農産物輸入の全面自由化を認め、国内農業を犠牲にする経済の仕組みは、もうやめにしなければならないのです。
そうしてはじめて、地域に生きる人たちの夢が形になるための必要条件が、ひとつ整うのではないでしょうか。
12月に香港で、WTO(世界貿易機関)の閣僚会議が開催される予定です。「貿易自由化は、大きな利益をもたらす。日本は、自由化を進める役割を果たし、貿易大国の存在感を示す時だ」、という記事も、すでに出はじめています(11月12日付、朝日新聞社説「WTO―日本は農業で歩み寄れ」)。今後、これをめぐる報道を、チェックしたいと思います。(伊)
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2005年11月5日(土)秋晴れ 「いつ、どこで、だれが」 |
小学校の国語の時間、作文は、「いつ、どこで、だれが、何をした」がよく分かるように書きましょう、と先生に習いました。
しかし、国民の意思を正確に反映しない小選挙区制という選挙制度のもとでおこなわれたあの衆院総選挙が終わって、このところ、「いつ、どこで、だれが決めたの?」と、思わず問い返したくなるようなニュースが、アナウンサーによって淡々と読まれては過ぎ去ってゆきます。
沖縄・普天間基地の移設、横須賀港への米軍原子力空母の配備、アメリカ産牛肉輸入再開についての答申案、労働安全衛生法・労働時間短縮促進法の改正などなど・・・。
地元滋賀県では、県立河瀬中学校での歴史教科書採択問題もありました。*
いずれも私たち自身の未来にとって、たいへん重大なことばかりであるはずなのにと、ただただ驚くばかりです。
霜ヶ原林道(鈴鹿山中)より望む 近江平野・琵琶湖
報道すら、ほとんどされていませんが、今、急激に推し進められようとしている「農政改革」についても、そうです。
この「改革」の一環として、2007年度から導入される「所得安定対策」では、耕作面積が4ヘクタール(北海道は10ヘクタール)以上の経営体しか助成対象にならないと、この10月に決定されました。
販売農家戸数で見ても、3ヘクタール未満の小規模な農家が実に9割以上を占める日本の農業。あまりに現実離れした方針に、当事者である農家の方々(その大多数は、兼業農家として、日々の勤めに忙殺されながらも、何とか農業を支えているのです)から、それこそ「いつ、どこで、だれが、決めたのか?」と疑問と不安の声があがって当然です。
この決定は、今年3月に閣議決定された、食糧・農業・農村基本計画に沿ったものです。この新基本計画は、農産物市場の全面自由化を前提に、農業に国際競争力を求め、それに見合う「効率かつ安定的な農業経営」を育てるため、「意欲と能力のある農業経営者」だけを対象にした「担い手」対策を打ち出しています。
次に来るのは、株式会社の農地取得を認めていない現行の農地法の全廃です。
これらの方針どおりにすすめられれば、戦後農政によって痛めつけられ続けてきた日本の小さな家族農業は、いよいよその存立基盤を失い、とどめを刺されてしまいます。地域も崩壊してしまいます。
また、これらは、土地所有に関わるだけに、一度、決められたら恒久的に固定化されてしまうという性格のもので、今後の日本の将来を決定づけてしまう、根幹の問題です。
おばあさんの畑で
(フジバカマとアサギマダラ)
この農の分野にはじまり、暮らしといのちに直結する医療・教育・税制・労働法制等々、そして極めつきの憲法と、「改革」は、今まさに強引にすすめられてゆこうとしています。
私たちは、もう一度、素直な子供の心を取り戻し、「いつ、どこで、だれが?」と問い返すことをしなければ、主権者であるはずの国民の不在のうちに、次々と重大な決定がなされ、人が生きる大切な土台は、もはや保てなくなるのではないかと、危惧する日々です。(伊)
*「つくる会教科書」を中学生の手に渡したくない市民・保護者の会が結成 され、賛同人を募集されています。
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2005年10月21日(金)晴れのち曇り 「黒谷あたり」 |
犬上川
やわらかな陽光に誘われて、ここ大君ヶ畑の村内をぶらりと歩けば、人も植物も動物も、それぞれに秋の佇まいです。
私は特に、北側に延びる黒谷(くろたに)のあたりを歩くのが好きです。
黒谷
この小さな谷は、もともと静かな大君ヶ畑にあって、さらにもうひとつ静かで、木々のざわめき、木漏れ日が清々しいところです。
奥まで歩けば、フキ・ミョウガ・ムカゴ・クルミなどなど、四季折々の山の恵みも豊かです。
谷の口の方には民家が何軒かあり、まもなく犬上川の大きな谷へと合流してゆきます。
ふと通りかかったお宅の玄関先では、おばあさんが、自分の畑で穫れたトウガラシを天日に干していました。粉にして、漬け物などいろいろな料理に入れるのだそうです。
ナスの葉っぱを干したもの
このおばあさんは、ナスの葉っぱも干しておられました。タクアンを漬ける時、柿などと共にこれを混ぜ込むと、風味が出てとてもおいしくなるのだそうです。
「葉っぱがほしくて、みんな、ナスをつくらはる」ようなものだそうです。おもしろいですね。そのタクアンは、どんな味がするのでしょう。一度、いただいてみたいものです。
ホウキ草
そして、こちらも自分で育てたホウキ草。干して、自家製「箒(ほうき)」を作るのだそうです。これを使うと、「うつくしく掃ける」と、おばあさんは、前に作っておいたもので、サッサッと掃いて見せて下さいます。
自分で作るということは、幾つになっても、その人の確かなたのしみなのですね。
そして、秋の太陽は、人間にいろんなものを作らせてくれるのですね。
秋の黒谷あたりは、おだやな時が流れています。(伊)
黒谷
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2005年10月14日(金)秋晴れ 「山里の秋はにぎやか」 |
春を過ぎ、猛暑の中で、一時期、姿を潜めていた色とりどりの野の花が、さわやかな秋風が吹き抜けるようになって、裏山に、谷筋に、道端に、戻ってきました。
いっとき、見失っていても、土の下の根や、こぼれ種でしっかりと生きていて、季節がめぐって来れば、毎年、ちゃんと、同じところで芽を出し、花を咲かせることに、あらためて気づかされます。
ミゾソバ(?)
風に揺れる花々に誘われてか、真夏の間、どこに「避暑」していたのでしょう、白や黄や茶や薄紫のチョウチョ、それに、えらく派手な色のトカゲたちも、元気に活動再開です。春に見かけたものとは、もう世代交代しているのでしょうか?
昨日からは、突然、カメムシたちまで戻ってきました・・・。網戸にしがみつき、あるいは縁側を闊歩し、時には部屋の中をブーンと勢いよく飛んでいます。
この山里の下流にある琵琶湖には、おととい、シベリアからコハクチョウのつがいが、渡ってきたそうです。
ゲンノショウコ(花は9月15日の項を参照)は、
タネの様子から、別名「ミコシグサ」とも。
(花後、左のように尖り、次に右のように、尖りの根元にタネが 茶色にふくらみ、最後に中央のように、タネが上に担がれます。)
そんなこんなのにぎやかな秋、お隣りのツトムおじさんが、アケビとクルミをいっぱい届けてくださいました。このコラムの初回で触れた杉山のおじいさんとは、反対側のお隣りさんです。
アケビ
オニグルミ
「クルミにもいろいろ種類があるけんど、これはオニグルミと言うて、おいしいやつや」。
いつも笑顔で元気なツトムさんは、小柄だけれど、畑仕事から大工仕事、その他、何でもこなす、とても器用な方です。「お勤め」という形の仕事からは、もう退いておられるのですが、毎日、朝から、何かしらせっせと体を動かしておられます。
里山研究庵から望む
この集落からさらにわけ入った奥山では、サルはもちろん、イノシシやタヌキやヤマドリ、シカやクマ(この2つには、私はまだ会ったことはありません・・・。)など、もっといろいろな動物たちが暮らしているのです。
山里の秋は、にぎやか。(伊)
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2005年10月7日(金)曇りのち雨 「いのちは丸いもの」 |
東近江市立八日市図書館の前崎さんに声をかけていただき、先週の土曜日、ここから車で1時間ほど西にある永源寺町*の図書館に行ってきました。(*今春の市町村合併によって、東近江市に合併されました。)
民族文化映像研究所の姫田忠義さん(1928年生まれ)たちが制作された記録映画『白川郷の合掌民家〜技術伝承の記録〜』の上映会と、研究所所長の姫田さんの講演会に参加するためです。
今回の上映&講演会を含む、シリーズ企画のチラシ (主催/人と自然を考える会・東近江市立図書館)
姫田さんの作品のことを知ったのは、実は、もう6年も前のことです。大阪の映画館「シネ・ヌーヴォ」で、私たちのドキュメンタリー映像作品『四季・遊牧―ツェルゲルの人々―』を上映していただいた折に、ちょうど同時上映だったのです。それで、一度、見てみたいなあと、ずっと思っていましたので、今回、ようやく念願が叶うことになりました。
協力/岐阜県白川村・白川村教育委員会 企画・製作/民族文化映像研究所・紀伊國屋書店・ポルケ 発行/紀伊國屋書店
映画は、90分の作品です。
合掌民家の移築・再建に立ち会い、それを細部にわたり、とても丹念に追ってゆきます。
作業の様子を淡々と映してゆく中にも、ここぞというポイントで入ってくる、素朴だけれどハリのあるナレーションが印象的です。簡潔ながら、説得力があり、また、深い意味までもが伝わってくるような、不思議なナレーションです。
途中で気がつきましたが、これは、姫田さん自身のお声なのでした。
だからきっと、地元の方々との交流・調査を丹念に重ねてこられた制作者の思いが、こちら側にも明快に伝わってくるのだろう、と感ぜずにはいられませんでした。
発行/紀伊國屋書店(700円)
会場で入手した姫田さんのインタビュー集『育ち行く純なるものへ』(紀伊國屋書店、2005年6月発行)を、帰宅後、読みました。
40年来、日本の自然と暮らしに向き合い、地道な記録・制作に取り組んで来られた姫田さん。それは、経済成長によって、日本の原風景が、大激変を迫られた40年でもありました。
ある意味で非常な精神的軋みを伴うであろう、そうした長年のご活動の中から、姫田さんが、ますます殺伐としてゆく現代をどう捉え、未来を担う子供たちに何を願うのか、その鋭い視点と、誠実な思いが、このインタビュー集からもひしひしと伝わってきます。
当日の講演会で、姫田さんは、「いのちって、もっと丸いものだと思うんです」と、おっしゃっていました。その一言を大切に考えたいと思いました。(伊)
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2005年9月30日(金)秋晴れ 「今どきの若い者は」 |
「こちら宛てにお荷物が届いているんですけど、運ぶのを手伝って下さ〜い」。
先週の木曜日、本道から脇へ入った坂の上にあるわれらが「里山研究庵」の土間に、宅急便の女性が、息を切らして駆け込んで来られました。
慌てて外に出てみると、石の階段のずっと下の方に、大きな段ボール箱が置いてあるのが見えます。
「どなたからだろう?何だろう?」と、思いながら駆け下り、とりあえず一緒に持ち上げて、階段をのぼります。ちらりと荷札に目をやると、「北海道紋別郡」の字が。「あ、武藤さんからだ」。
武藤さんは、私たちが勤めてきた滋賀県立大学を4年前に卒業し、この春から、小麦・ジャガイモ・タマネギ・カボチャ・メロン・ビートなどの栽培を手がける北海道の農家さんのもとで、農業研修に汗を流している女性です。
ずっしりとした箱を土間におろし、ふたを開けてみると・・・。とても立派なカボチャや、土のついたジャガイモなどがいっぱい詰まっていました。
2005年秋、武藤さん作
梅雨の頃、初めての地での毎日の農作業に、体力的な辛さを感じつつも、ふと手を止めて見上げる風景に“幸せ”を感じる、という旨のお葉書を下さった武藤さん。
ああ、ついに、実りの秋をむかえたのだなあ・・・。素朴なこの作物たちを手に取り、見つめていると、オホーツクを臨む北の大地に立つ、武藤さんの姿が思い浮かんできます。
土を耕し、苗を植え、草を取り、芽を掻き、受粉をし、鹿に喰われながらも、何とか育てあげた作物たち。
特に、カボチャは、「自分の畑」としてもらった区画で育てたもので、愛着も一塩のようです。葉や蔓をかき分けて探しあて、一つ一つ、はさみで収穫するので、右手がパンパンに腫れるのだそうです。そして、背丈ほどもあるコンテナに、ヨイショと持ち上げて入れることを繰り返します。腕にも足腰にも、相当な負担でしょう。添えられた写真入りのお便りには、何度も(涙)の文字が。
それでも、「季節の変化を感じながら、鳥のさえずり、日々かわってゆく風景に、心を和ませています」、と綴られています。
里山研究庵Nomadにて
武藤さんは、農家の出身ではありません。卒業後も、名古屋の会社に勤めていました。しかし、在学中、私たちゼミの仲間とともに、モンゴルの遊牧の大地で、その自然と人々に学んだ体験があります。帰ってきてからも、自ら日本の農村地域を訪ねて、農という営みと人間とのつながりを考えつづけてきたのです。
そして、この春、ついに思い切って会社を辞め、北海道へ旅立ちました。
閉塞のこの時代、若者たちの心にも大きな不安がのしかかっています。受けても受けても落とされる「就職氷河期」、パート・派遣・契約・請負などの不安定雇用、フリーター、ニート・・・。運良く正社員になっても、成果主義の競争原理のもと、解雇の不安を抱きつつ長時間労働に晒されることも多く、あるいはまた、会社自体が倒産することだってあるご時世です。
そんな中、新しい未来の暮らしのあり方を見つめ、自分なりの方法で、それへの関わり方を模索し、自らの人生を創りあげてゆこうとしている若者も、確実に増えてきていると感じます。
里山研究庵Nomadにて
それぞれの決意を胸に秘め、大きな一歩を踏み出す「今どきの若い者」たち。きっとここに、明るい未来への芽があるのだと信じています。
10月から大学の授業も再開です。気持ちを新たに、また、若いみんなとともに、学んでゆきたいと思います。
カボチャは、さっそく煮ていただきました。ホクホクとして、とてもおいしいです。希望の味をありがとう。(伊)
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2005年9月22日(木)くもり 「森と野を結ぶ稲刈り」 |
敬老の日の9月19日(月)、ここ大君ヶ畑から山のふもとへとくだって、犬上川の中流域、甲良町北落(こうらちょう・きたおち)に行き、「秋の農業体験〜稲刈り収穫祭」に参加してきました。
大君ヶ畑・北落の両集落のみなさんが、「兄弟邨」の交流行事として、転作地を活用した約7アールの「親子ふれあい交流田」で、春の田植え&秋の稲刈り体験をはじめてから、今年で4回目になります。
この秋は、なかなか涼しくならず、季節が1ヵ月ほど足踏みしているようでもありますが、それでも、交流田のキヌヒカリは、美しい黄金色に実り、そこここに、いつの間にか咲きはじめた彼岸花が、秋の確かな訪れを感じさせます。
この日もやや蒸し暑さの残る日でしたが、2つの集落の子供たちは、小さな手にのこぎり鎌を握りしめ、お母さん・お父さんとともに、北落のおじいさんたちに教えてもらいながら、一生懸命、稲刈りをしました。
私も、ザクザクとやり出したら、ついつい夢中になってしまいます。いけない、いけない、子供たちを押しのけては・・・。
実は、犬上川の中流域の北落と、川上の大君ヶ畑との交流の歴史は、たいへん深いものです。
鈴鹿山脈の山あいの「森の民」・大君ヶ畑の人々は、炭を焼き、薪を切り出しては、大八車に積み、川の流れに沿って山をくだり、北落をはじめ、甲良や彦根の集落へゆき、お米と交換して暮らしを立ててきました。
一方、山のふもとの「野の民」・北落の人々は、扇状地という土地柄、常に水不足に悩んできました。そこで、慈雨を願って、この山脈の最高峰・御池岳(おいけだけ)に、雨乞いをつづけてきました。雨乞い登山の折には、必ず、上流の奥山に位置する大君ヶ畑の村人を案内にたてなければならないのが、古くからの慣習です。
鈴鹿の山々にあたった気流は上昇し、雲となり、さらに冷やされて雨や雪となって地上に届けられます。こうして届けられた大切な水は、渓流となって山あいを走り、やがて大きな川となって平野を流れ、琵琶湖へ注ぎます。この大自然の悠久の循環の中で、人々は太古より生きてきたのです。「森の民」と「野の民」は、この大循環の中の、いわば運命共同体ともいえます。
5月下旬に植えた苗が、今、こうして立派な稲穂に実る。この水の、そして自然の循環あっての人間のいのちです。
このとてもシンプルで、とても大切な核心を、大地から人間が完全に離れていってしまう、まさにその瀬戸際のこの時代に、何とか子供たちに伝えてゆきたい・・・。両集落のみなさんの、そんな思いの深さを感じます。
折からの「聖域なき構造改革」は、農業にもひたひたと押し寄せています。競争原理のもと、大規模化や株式会社参入がすすめられようとしている中で、しかし、人間にとってもっとも身近なところで、自然との循環の回路を結んでくれる、小さな家族農業の大きな意味を、今、しっかりと見つめ直さなければならないのではないかと思うのです。
雲にかすみがちだったけれど、遠くに御池岳を望みながら、北落の方々が作って下さったおにぎりの味をかみしめました。(伊)
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2005年9月15日(木)晴れ・風涼し 「恐るべきトリック」 |
2005・9・11夜。
テレビをつけたとたん、え?と驚いた。
衆議院総選挙の開票結果速報番組では、開始して間もないというのに、すでに自民党の「歴史的勝利」を伝えていた。
おかしい。
そう思ったのは私ひとりなのだろうか?と、呆気にとられながらある民放の番組を見ていると、画面上部に視聴者からのFAXやE-mailが流されている。その多くが、やはり、この結果に驚きと不安を隠せないものである。
9月14日付の朝日新聞で緊急 ゲンノショウコ(大君ヶ畑の谷あいにて)
世論調査の結果を見ても、今回
の選挙結果について、55%もの人が「驚いた」と解答しているのであった。
自民党が、480議席中、実に296議席を獲得するという「圧勝」。そして、この結果を意外だと思った国民が多数いたという事実。これは、実に奇妙な現象である。
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本当に自民党は「圧勝」したのであろうか?
数字が大の苦手な私であるが、新聞で各党の得票率を書いたページを開いてみる。民意を比較的正確に反映するといわれる比例区で見ると、自民党の得票率は、全国で38.2%。投票率は、比例区で67.5%だから・・・・・電卓を取り出して掛け算をすると、答えは・・・・・25.785と出た。
つまり、自民党を支持する意思を投票によって明確に表明した国民は、全有権者の約25.8%にすぎなかったということになる。逆に言えば、全有権者の7割以上の人が、自民党を支持する意思を明確に表明しなかったということである。
ところが一方、自民党が獲得した議席数の割合は、296÷480、よって、過半数をはるかに超える62%なのである。
ここに、現実の国民意識との大きなずれがある。
だから、多くの国民が意外だと驚いたのも、当然のことなのだ。
* * * * *
これを各マスメディアは、こぞって「圧勝」と報道し、小泉首相は、「国民の信任を得た」と言う。
これが民主主義なのだろうか。為政者が自分たちに都合よくつくった、小選挙区制というこのような理不尽なルールのもとで、私たちの「代表」が選ばれ、私たちの暮らしやいのちに関わる大切な問題が、次々に決められてゆくとしたら、私たちの未来は、一体どんな方向へ導かれていってしまうのだろうか。
マスメディアは、この虚偽と欺瞞に満ち満ちた「圧勝のトリック」に指一本触れず、祭りの後も「劇場政治」を演出し、今日もまた、馬鹿騒ぎをつづける。そして国民は、この話題にもう飽き飽きして、日常に戻るのである。
* * * * *
昨日9月14日、最高裁大法廷は、海外在住者が選挙区での投票を認められていないことについて、「選挙権を制限する公職選挙法の規定は憲法に違反する」との判断を示した。
とすると、わざわざ投票所まで足を運んで投票した圧倒的多数の国民の意思を死票にし、そうした人々の抱いている意見や思いはなきものと、一握りの「代表」たちがどんどんと政治をすすめていってしまうことは、もっとひどい憲法違反なのではないだろうか。
この状況こそが、民主主義の根幹を揺るがしているのだ。(伊)
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2005年9月8日(木)秋晴れ 「静かな泉」 |
「現代日本文学史上もっとも美しい散文で、人類はじめての原爆体験を描いた」と言われる原 民喜(はら たみき)は、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下からごく間もなく勃発した朝鮮戦争において、再び核兵器が使用されるかもしれないという絶望の中で、1951年、自殺した。
その絶筆「心願の国」に、次のような一節があることを、「NHKスペシャル ZONE〜核と人間」(2005年8月7日21:00〜22:15放映)で知った。
* * * * *
ふと僕は、ねむれない寝床で、地球を想像する。(中略)哀れな地球、冷えきった大地よ。だが、それは僕のまだ知らない何億万年後の地球らしい。僕の眼の前には再び仄暗い一塊りの別の地球が浮かんでくる。その円球の内側の中核には真っ赤な火の塊がとろとろと渦巻いている。あの鎔鉱炉のなかには何が存在するのだろうか。(中略)そして、それらが一斉に地表に噴きだすとき、この世は一たいどうなるのだろうか。人々はみな地下の宝庫を夢みているのだろう、破滅か、救済か、何とも知れない未来にむかって・・・・・。
だが、人々の一人一人の心の底に静かな泉が鳴りひびいて、人間の存在の一つ一つが何ものによっても粉砕されない時が、そんな調和がいつかは地上に訪れてくるのを、僕は随分昔から夢みていたような気がする。
原 民喜『夏の花・心願の国』(新潮文庫)より
(カバー装画 近藤弘明)
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私たちの生きる現代は、競争の果てに、もはや、我勝ちに弱きものを振り捨て、踏み越えることをためらう羞恥心さえ失った、そんな殺伐とした時代になってしまった。
しかし、原 民喜の希求する「調和」とは、つまり、古来、人類が憧れつづけてきた永遠の夢ではないだろうか。そして、これまでに古今東西の人々が積み重ねてきた、様々な思想と哲学の流れというものは、その人類普遍の夢の具現を願う、幾筋もの思索の航跡であったはずである。
私たちの「菜園家族」構想も、これをめぐって広く市民のみなさんと対話を深める中で、あたかも扇状地の伏流水がその扇端部において、再び地上に湧き出すように、一見、涸れたかに見える、人類の願いのそんな一筋の流れを、21世紀の現代に甦らせ、ささやかながらも「静かな泉」をひとつ、またひとつと湛えてゆく、その契機になれば、と思うのである。(伊)
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2005年9月1日(木)くもり 「市民の手で」 |
戦後60年。
その時、何が起こったのかを、この節目の年にしっかりと見ておきたい、という思いから、この夏放映された「NHKスペシャル」や「アーカイブス」など、ドキュメンタリー番組を何作品も見た。
特に印象深かったのは、『市民の手で原爆の絵を』という1975年に作られたドキュメンタリーであった(8月7日深夜「NHKアーカイブス」にて放送)。「あなたの体験を絵で描いて下さい」という放送局の呼びかけに応えて、広島の市民たちは、原爆投下当時、自ら目にしたものを、後遺症に耐えながら、孫の道具を借りるなどして、描こうとするのだった。
しかし、20歳ごろ、爆心地近くにあった勤め先で被爆したという女性は、この世の出来事とは思えぬ、あまりの光景だったために、何枚描いても、何枚描いても、「こんなんじゃなかった」と、納得がいかない。
そうして、やっと最後に描けたのは、指先から青白い炎を出して燃えている、ひとつの手であった。それは、何かをつかもうとするかのように、空にむかって腕を突き出したまま、横たわって死んでいる人の手なのであった。「かつては、かわいいお子さんを抱きしめた、そんな手だろうに・・・」。女性は、声を詰まらせた。
私たち人間の手は、破壊のためにあるのではない。
いのちを育み、ものをつくり出すことができる。
市民の手で、歴史を残し、伝え、新しい未来もまた、市民みずからの手でひらいてゆきたいものだ、と思わずにはいられない。(伊)
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2005年8月25日(木)くもり・台風11号接近中 「晩夏」 |
鈴鹿山中のここ大君ヶ畑では、酷暑は峠を越し、山の向こうの夕空は、早や秋の気配である。
道端に咲く草花も、いつの間にか種類が移り変わり、蝉しぐれの中で、赤とんぼもちらほらと飛んでいる。「郵政解散」などと、人間社会が空騒ぎさせられていても、自然は正直である。
終戦から60年。この夏は、日本にとって、重要な節目であったはずである。それを一人一人にじっくりと考えさせないためであるかのように、空騒ぎの「政治劇場」は、今日もまた、電波に乗って、この奥山の庵にある古ぼけた旧式のテレビの中でおどっている。
戦後、それも30年近く経って生まれた世代の私ではあるが、それでも、母は終戦の年生まれであるし、祖父母が存命中は、空襲(岐阜市)による炎から逃れるために、子らを背負い、長良川にかかる橋を必死で渡った話など、折に触れ聞いたものである。
人里離れたこの奥山でも、集落のおじいさん、おばあさんと話せば、あの時代、それぞれの身の上に起こった苦労話は、尽きることはない。85歳になるお隣りの杉山のおじいさんは、遠く酷寒の地チチハルで、ご苦労されたという。
縁側でそんな話を聞いていると、こうした体験は特殊なものではなく、同時代を生きた人々すべてが、何らかの形で巻き込まれていったことを実感させられる。
この忘れてはならない出来事の記憶が、次第に風化していく。
私たちは、身近な人から、直接、その生の体験を聞き、さらにそれを現代世界につなげて考え、未来に思いを馳せることのできる世代でもある。そのことの重みを感じるこの頃である。(伊)
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