天候不順の夏です。
立秋をむかえた今、ようやく夏らしい陽ざしが照りつけるようになりました。
7月下旬、梅雨がいまだ明け切らぬ曇天の中、2つの目的で信州の旅へ出かけました。
千曲川沿いの雄大な流域平野。長野市まであと少し。
目的の1つは、長野市にある清泉女学院大学人間学部の芝山豊先生が開講されているリレー形式の講座で、「21世紀の地域未来〜森と海を結ぶ菜園家族」をテーマに、講義をおこなうためです。
そして、2つ目の目的は、同じ長野県でもそこからずっと南下して、南アルプス山中、下伊那郡大鹿村で、小さな牧場とチーズ工房「アルプ・カーゼ(山のチーズ)」を営む、小林俊夫さん・静子さんご一家を訪ねるためです。
俊夫さんは、2003年、私たちが、彦根の滋賀県立大学のキャンパスで、毎月第3土曜日に「菜園家族の学校」を開いていた時、その年の締めくくりの12月の回に、折からの吹雪をおして、はるばる湖国まで、お話に来て下さいました。
ご家族が一体となって、ふるさとの雄大な自然の中に、独特の生産と暮らしの場を創りあげてこられた、奮闘の歴史と、独自の哲学を伺い、参加者一同、深い感銘を受けました。
長野市から、高速バスで南下。
今回、長野市から高速バスという手段があることを知り、その時以来の念願が、ようやく叶い、訪問が実現しました。
この日は、朝からすっきりと晴れわたり、夏らしい青空になりました。
車窓から、どこまでも続く信州の美しい山なみを眺めながら、ひたすら南下します。
松川ICで路線バスに乗り換えて、大鹿村へ。
天竜川にそそぎ込む小渋川沿いに、谷あいの道をどんどん遡ります。
松川ICで高速バスから路線バスに乗り換え、 南アルプス山中の下伊那郡大鹿村をめざす。
険しい峡谷を流れ下る小渋川。 これは、途中につくられたダム湖。
「こんな山中に村があるのだろうか・・・」と不安になった頃、パッと視界が開け、田園と集落があらわれました。
大鹿村の下の集落
村内の大河原でバスを降りると、間もなく第二子の出産を控える長女・野花(やおい)さんが、車で迎えに来て下さっていました。
途中、ちょうど終業日を終え、翌日から夏休みだと嬉しそうな小学1年生の娘さんを乗せ、さらに山道を登り、いよいよ到着です。
彦根に来られた時には、こうした道のりを、吹雪の早朝、野花さんが車で送り出されたのかと、頭が下がる思いです。
1945年生まれの俊夫さんは、中学卒業と同時に村を出て、会社勤めをしたものの、20代の半ばでふるさとに戻りました。一町歩の山林を譲り受け、高度経済成長とそれにつづく「日本列島改造論」のまっただ中、奥さんの静子さんとともに、それに抗するかのように、標高1,000メートルの高原に、小さな牧場を切り拓きました。
「アルプ・カーゼ」で、小林俊夫さん・静子さんと。
乳牛とヤギを数頭ずつと、ニワトリ10数羽。必要最小限の頭数のこれら家畜と、山あいの田畑を組み合わせての家族小経営です。
2人の小さな娘さんたちも、父母と一緒になって、家畜の世話や畜舎の掃除、家族のための食事づくりなどをし、手伝いました。
小林さんの畑。 多品目少量の有機栽培。
「アルプ・カーゼ」の裏山で放し飼いのニワトリ。
初めは乳を出荷していましたが、酪農状勢の変化に伴って、それのみに頼らず、草主体のわが家の乳を生かすにはと、チーズづくりに挑戦することになったのです。
山ぐには、山ぐにに学べ、ということで、俊夫さんは、本場アルプス・スイスに留学し、ゴーダタイプのチーズづくりを学びました。この時、40歳。
ゴーダチーズは、木造の倉庫の棚にねかせ、時々、塩水で磨き、保管します。ゆっくりと熟成され、時が経てば経つほど、味わいに深みが増してくる、まさに山ぐにに適したチーズなのです。
「アルプ・カーゼ」で働く小林俊夫さんと静子さん。 1階は牛小屋、2階は住居とチーズ販売所、 地下にチーズの工房と貯蔵室がある。
その後、日本は空前のバブル景気に酔い、飽食の時代を迎えました。「グルメ・ブーム」という言葉も生まれました。しかし、その時にも、小林さん一家は、かたくなに小規模の家族経営の形態を守りました。
娘さんたちは、中学卒業後、山中の家から遠く離れた高校には進学しませんでした。長女の野花さんは、「家にいて、お父さんやお母さんから、もっと学ばせてほしい」、と自宅で働きながら勉強し、大学に行くかわりに、スイスの農村におもむき、グリーンツーリズムの農家民泊の修行をしました。
受け入れ先のご家族に、すぐに太鼓判を押してもらえた時、農家に生まれ、小さな頃から父母とともに働いてきたお陰だと、感謝したそうです。
子供にとって、人間にとって、まさに、自然と、家族の中での労働が、「先生」なのですね。
長女・小林野花(やおい)さん
今、母となった野花さんは、私たちも今回、お世話になった宿泊施設「延齢草」をまかされています。
年月を経た落ち着いた木材に、窓辺のゼラニウムの赤い花が美しく映えるこの木造の建物は、実は、大鹿村の中学校校舎だったものです。
1995年、地元の人々の反対にもかかわらず母校の校舎取り壊しが決定した時、小林さんたち有志は、苦労の末に移築し、宿泊施設として再生させたのです。
都会から訪れる大人や子供たちに、ヤギの搾乳やチーズづくりといった体験学習の便宜も図っています。
旧中学校校舎を仲間の力で移築・再生した 体験型の宿泊施設「延齢草」
泊めていただいた2階のお部屋。 窓辺の赤いゼラニュウムが印象的。文机が懐かしい。
この日も、神奈川の方から保育園の男の子が、両親と山好きのおばあさんに連れられて、泊まりがけで来ていました。
山や集落を散策し、山と空を間近にのぞむハーブ湯で疲れを癒します。もぎたての新鮮な野菜や、搾りたての乳、自家製チーズ、地卵、池に放してある鱒、山菜や鹿肉、梅や桃など、この山の幸をふんだんに生かした、野花さんの手作り料理に、話は弾むのです。
「子供って、自分より小さい生き物に出会うと、 エサをあげようとするんだよね」と俊夫さん。
夕食後、俊夫さんの案内で、澄んだ夜空に冴える月の光のもと、田畑の脇の池まで歩き、そのほとりに舞うホタルに、都会っ子は目を見張ります。小学1年生の孫娘さんは、軽やかに動き、ホタルを手のひらに包みます。
この孫娘さんは、のびのびと駆けめぐり遊びながらも、そのことによって、都会からきた同年代の子供たちを、自然とのふれあいに誘う役割を見事に果たしているようです。
今日から夏休みの孫娘みずきちゃん(右)と 神奈川から泊まりに来ていた男の子。 朝顔を摘んできて、色水のお絵描きに夢中。
本来、人間は、その一身に、「第一次産業」から「第三次産業」、さらには、文化・芸術に至るまで、さまざまな能力の萌芽を持ち合わせているものです。そのそれぞれを相互に連関させながら、遺憾なく伸ばしてこそ、人間は、心身ともに伸びやかに生きることができるのだということを、三世代の小林さんご一家の姿は、身を以て示しているようです。
さて、俊夫さんと静子さんに、この春、京都でサティシュ・クマールさんの会に参加したことをお話しすると、何と、20年ほど前、この「アルプ・カーゼ」に、サティシュさんが訪ねて来られ、そして、その縁で、15年ほど前には、スモール・スクールの子供たち30数名が、大鹿村で夏の19日間を過ごしたとのこと。
2番目の娘さんが、その準備に、イギリスに行かれたそうです。
大鹿村のおばあさんたちも、自分の畑に、その子供たちのために、数本余分に苗を植え、心を込めて育て、採れた野菜を持ち寄って歓迎したのだそうです。
日本の「秘境」、大鹿村でサティシュさんのお話を聞くとは、そのめぐりあいの偶然に驚くとともに、サティシュさんが京都での歓送会で、伝統的な農山村の暮らしを再興することの大切さをなぜ強調しておられたのか、分かった気がしました。
キュウリの花
今回、俊夫さんも、そのことを噛みしめるように言っておられました。
「大鹿村も、他の山村の例にもれず、ダムやトンネルの建設、道路改修工事、 土砂採取などに、依存してきました。
子供の高校進学は、親たちに現金収入のある農業外の仕事を迫り、若者も また、それを機に、村を離れてゆきます。
過疎化がすすみ、高齢化率は、長野で一番です。
自分の家族の暮らしだけではなく、いかに山らしいなりわいを現代に築き、 里との産物や人の循環を復活させ、集落全体として甦ってゆけるかが、今、 一番の課題です。
高山に降った雨は、川を流れ下り、平野を潤し、海に至り、やがてまた 気流となり、雨となってめぐり還ります。
鳥が食べた森の木の実は、糞となって運ばれ、地面に落ち、やがてまた、 山に新しい木が芽生えます。
自然がやっていることを、人間もやればよいのです。
山の集落から都市へと流出した人や、その知恵や文化が、もう一度、農山村 に還元されるようになれば・・・。」
天竜川 大鹿村から流れる小渋川も、 この大河「あばれ天竜」に注ぎ、 やがて海に至る。
俊夫さんのこの言葉は、「菜園家族」による、森と海(湖)を結ぶ流域循環型の地域圏の再生を構想してきた私たちにとって、インスピレーションとともに、希望を与えて下さるものでした。
全国に先駆けて「脱ダム」を掲げ、新しい地域づくりに挑戦した長野。その中でも、ユニークな試みを重ねてきた大鹿村は、都市部からぐっと奥まった「日本の秘境」であり、だからこそ、きっと、自然との共生がもとめられる21世紀の未来において、「先進地域」となってゆくはずです。
これからも、この山ぐにの本場に、おおいに学んでゆきたいと思います。 (伊)
※小林さんご一家についての詳しくは、『菜園家族だより』No.8をご覧ください。
※サティシュ・クマールさんの会in京都については、こちらをご覧ください。
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